Do not kill anywhere anytime 市民の意見30の会 東京

映画紹介⑧「帝国オーケストラ」

2019

11/17


監督:エンリケ・サンチェス=ランチ
ドイツドキュメンタリー:97分

「帝国オーケストラ」

◆日本でも熱狂的なファンが多いヴィルヘルム・フルトヴェングラーが首席指揮者を勤めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(以下BPOと略記)が、ナチス支配下の12年間どのような体験をしたかを、生存者の証言を通して描くドキュメンタリー。BPOは1934年から1945年まで、完全に国家によって運営され、第3帝国の「文化大使」としての役割を強要された。36年のベルリン・オリンピック、37年のパリ万博をはじめ、数多くの国際的式典やナチスのプロパガンダ行事に駆り出されている。

◆後日の研究や伝記、本人の書簡からも明らかにされていることだが、この間フルトヴェングラーは、ゲッペルス宣伝相との取り決めにより、国外亡命をしないことを条件に、意に染まない演奏会や催しの指揮をすべて拒否する権利を確保し、それを行使したのだった(たとえば注意して見ると、ベルリン・オリンピックでBPOを指揮しているのはクナッペルツブッシュであって、フルトヴェングラーではない)。彼はまた、多くのユダヤ人音楽家を助け、ヴァイオリンニストのシモン・ゴールドベルグら4人の団員を亡命させた。彼自身もベルリン陥落の3ヵ月前、身の危険が迫ったためスイスに亡命する。
連合国の非ナチス調査委員会の審査により音楽活動を再開を認められたのは、終戦2年後の1947年だった。

◆この映画は、フルトヴェングラーだけに焦点をあてたものではなく、2人の生き残り元団員と亡くなった団員の肉親の証言に当時の映像を重ね合わせて、その時代を再現しようとしている。当時のドイツ社会の常として、BPOにも数人のナチス党員が入ってきて、団員の言動は逐一密告された。
ユダヤ系の親族を持つ団員は、とりわけ神経をすり減らさなければならなかった。BPOは戦時中も多くの海外公演をこなし、空爆が激しくなってからも軍需工場や病院などをまわって演奏を続けた。驚いたことに、最後の演奏会が開かれたのは4月11日、ベルリン陥落の僅か3週間前だった。

◆フルトヴェングラーにせよ、その他の団員にせよ、願っていたのは「ドイツ音楽の伝統を守る」ことだった。しかし1950年。戦後初のニューヨーク公演に赴いたBPOは、「ナチとのハーモニーはあり得ない」というプラカードを掲げたデモ隊に迎えられる。肉親をナチに奪われた人々が、つい最近までナチの広告塔だったオーケストラを歓迎する気持ちになれなかったことは、理解できる。だが、冷静に考えれば、BPOのメンバーは、ほかにどんな選択の余地があっただろうか。前線行きを免れるなどの特権に恵まれていたとはいえ、家族を抱えて戦時下を生き延びるには、命じるままに演奏を続けるしかなかった。

◆若年の筆者は、フランスのレジスタンス文学やナチスから亡命したブレヒト、トーマス・マンらの作品に惹かれた。ドイツの攻勢を前に風前の灯だった英国で、命がけで反ヒトラー映画を作ったチャップリンを尊敬した。今もその気持ちは変わらないが、しかし抵抗にはもっと多様な形があり得るのではないかと思うようになった。たとえば、フルトヴェングラーの不服従のような。

◆ひるがえって日本の芸術家たちの戦争への協力・非協力について考えると、背筋が寒くなる。そもそも、国家から自立した文化や精神の存在自体が問われるからだ。(2008年10月)

本野義雄