九月十一日、アメリカで引き起こされた連続テロ事件は一般市民数千人を犠牲にする悲惨極まりないものだった。しかも、この事件は、多数市民の犠牲があらかじめ予見され、その犠牲を前提としてはじめて可能となる手段だっただけに、衝撃的なものであった。私たちは、犠牲者に対して深い哀悼の意を表するとともに、目的がどのようなものであれ、それを達成する手段としてかかる方法を用いることに、強く反対する。しかし、その後の事態は、私たちの憂慮をさらに深くするような方向に進んでいる。アメリカの上下両院は、大統領に対して「必要なすべての武力行使の権限」を与える決議を採択した。これは、アメリカのベトナム攻撃の端緒となったトンキン湾事件直後の議会決議を想起させる。この事件は後に誤りであったことが当事者によって表明されているのである。最近のアメリカCBSの世論調査では、たとえ市民を巻き込むことがあろうとも報復の武力行使を容認するとの意見が六五パーセントを超えていると報じられている。市民を犠牲にしたテロ事件に対する報復、処罰と称して、さらに無辜の市民を数千、場合によっては数万の規模で犠牲にすることが予見されるような武力行使は、決して正当化されるものではない。私たちは、アメリカ政府に対して、武力行使の準備をただちに中止することを要請するとともに、アメリカ市民には、理性に基づく冷静な対応を取り戻されるよう希望する。
さらに、私たちの国、日本の政府の対応にも、強い批判を加えざるを得ない。政府は、アメリカの方針を最初から無条件に支持し、かつ、これを機会に有事法制、危機管理体制の強化、新たな戦争協力立法の制定の検討など、いっそうの軍事化を進めようとしている。日本のなすべきことはまったく逆の方向にある。国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使を国際紛争を解決する手段として永久に放棄した日本ならば、政府がなすべきことは、アメリカに武力行使を思いとどまらせ、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して問題解決の方策をさぐるよう説得することでなければならないはずである。
今回のテロ事件のありようそのものが、すでに世界の構造が二十世紀の冷戦時代のそれとまったく異なったものとなってしまっていることを示している。それにもかかわらず、アメリカをはじめ、多くの「先進国」政府は、強力な武力のみが世界を自らの秩序の下に統制できるという古い観念から脱却しえていない。「善対邪悪」、「全文明対テロ集団」という単純な図式化は、事態をなんら説明するものではない。テロと無差別な報復攻撃、そしてさらに規模を拡大したテロと報復攻撃という、ここ数年、何度も繰り返されてきた経過からも明らかなように、武力行使はさらなるテロ攻撃をも招き、いたずらに市民の犠牲のみを伴う出口の見えぬ暗鬱な時代が続くことだろう。
必要なことは、暴力と戦争による対立と紛争の世界から平和的、外交的な手段を駆使して平和な世界をつくりだすために各国のあらゆる勢力が力を尽くすことでなければならない。構造の根底にある、富と人権の不平等、国家・民族・文化・性の差異による差別をなくし、多様な民族・文化の間での対等・平等・公正な関係の創造に向けて、それぞれが知恵と力を傾けることでなければならない。「自由、民主主義、平和」を目的にしながら、「暴力、戦争、暗殺」という手段を用いることは許されない。
武力によって国際紛争は解決できない。人を殺すな、殺させるな、殺されたくない、ということを私たちはもう一度ここで強調したい。
二〇〇一年九月十八日
市民の意見30の会・東京