(ニュース臨時号 98/09/05)
アジア太平洋戦争で日本が敗北してから半世紀以上が過ぎた。このかん「戦争と平和」の問題は、私たちにとって大きな関心事であり続けた。植民地支配と侵略戦争によって他国の民衆とその土地に多大な被害を与え、同時にその過程で自らもまた精神的・物理的に傷ついた私たちは、他国の民衆との間に信頼関係を築くために、またそのことを通して、いったん崩壊した自己を回復しようとしながら、この歳月を生きてきた。それは、いわば「精神のリレー」によって、戦後に生を享けた人びとも含めて世代を超えた課題であるというのが、私たちの共通の認識であった。この歳月の意味をどう捉えるかについては、さまざまな角度から検討されてきており、今後もなおその作業は、多くの私たちによって続けられるだろう。ここに集う私たちが、小異を残して、戦後史の中での見るべき「成果」のひとつとして共通して挙げたいと思うことは、半世紀以上に及ぶ戦後史の中にあって、日本の国軍が他国の兵士を、ましてや他国の民衆を、「戦争」の名の下に殺瘍することはなかったという事実である。それは、警察予備隊→保安隊→自衛隊へと名称を変えつつ、いまや世界でも有数の国軍となった軍隊を持つこの国にして、現憲法の規定によって「国権の発動たる戦争」を行ない得なかったこと、過去への反省の意志を込めてこの憲法の規定を大事に思う民衆意識が、多くの国の為政者が易々と越えてしまう「戦争への誘惑」を日本においては辛うじて阻止できてきたことを意味している。
しかし、私たちは、いま、正直に認めるべきだろう。「戦争への誘惑」を阻止してきたこの堤防は、この国においてもすでに決壊したか、よく言って決壊の寸前にあることを。
なぜ、私たちは、こう言うのか。それは、もちろん、このかん日米両政府が続けてきた「日米防衛協力指針」の改訂協議に基づいて策定された「新ガイドライン」と、それを基盤に日本政府が構想し国会に提出している、いわゆる「周辺事態法案」の中身に関わっている。先に私たちは、日本の国軍が他国の人びとを殺傷しなかった戦後五〇年有余の現実を、戦後史の中で特筆すべきことだと述べたばかりだ。しかし、私たちは同時に、占領中に調印・批准された旧日米安保条約の成立以来、戦後日本が一貫してこの軍事同盟条約の枠内でしか生きてこなかったことも自覚している。旧新の安保条約の下で、日本は、米国が主導して行なった戦争をしっかりと支えた。一九五〇年代には朝鮮の、六〇〜七〇年代にはヴェトナムの、九〇年代にはペルシャ湾岸の戦争を。日本は、これらの戦争の渦中にあって、在日米軍基地の七五%を集中させた沖縄を軸に据えながら、米軍基地の機能を確保し武器・弾薬・食糧・医薬品等の補給を可能にし、あまつさえそこから経済的な利益をも得てきた。こうして戦後日本は、国軍が海外に出兵することのないままに、「間接的には」他地域の民衆の殺傷に加担してきた事実を私たちは忘れ去ることはできない。
東西冷戦構造の崩壊後、日米両政府はこの安保条約体制の見直しを課題としてきたが、その結果日本政府が採用しようとしている方向性が周辺事態法案等に凝縮して表現されている。そこでは、沖縄の過重な米軍基地負担を軽減するかのように見せかけて実は再編統合策によってこれを強化することを大前提に日本の国軍=自衛隊の役割を飛躍的に増大させ、日米軍事協力体制をかつてない水準に引き上げることが企図されている。日本がこの方向を選ぶことは、世界、とりわけアジアとわが国の関係のあり方を根本的に誤らせるものだと私たちは考える。なぜなら、新ガイドラインと周辺事態法案は、米国がその国益のために、世界のどこかで(「周辺で」と法律案は「規定」する)軍事力を発動した場合に、日本がこれに「自動的に」、しかも客観的には「主体的に」、この戦争を後方支援することを定めている。紛争地域の民衆と日本の関係は、こうして、少なくとも初期の段階では他動的に決定されることになる。これは、戦後五〇年間以上、戦後憲法のもとで下から築き上げられてきた民主主義と平和主義の法制度・社会制度を根本から覆し、軍事が優位に立つ国家体制を導き入れる政策である。
世界は大きく変化しながら二〇〇〇年紀に入ろうとしている。それは、五〇年を越す敗戦後期を経つつあるこの国が、過去においてなし得なかった歴史的な負債の返済を志すと同時に過去の積極的な遺産を引き継ぎつつ新たな道を模索すべき時点に見合っている。新しい時代の到来を予感しうるこの時期を選んで、日本政府が選択しようとするこの愚かで危険な針路を、私たちは認めるわけにはいかない。
しかも重大なことには、この針路選択に関して、国会においても、ほとんどの政党においても、マスメディアにおいても、まっとうな議論ひとつ起こってはいない。この針路、すなわち「国権の発動たる戦争」をやがて担い、それがもたらす諸結果を引き受けることをとりわけ強制されるであろう最前線の地・沖縄では、もちろん、安保体制それ自体への異議申し立ての運動が力強く沸き起こっている。また周辺事態法案等が企図する総動員体制に関しては、直接その影響下におかれる地方自治体と公務員、港湾・造船・運輸・燃料・警備・医療などの業界と労働者の間から、強い疑念や批判が起こっている。だが、それらは、政府とマスメディアによって徹底的に無視され、いまのところ広汎な議論へと展開してはいない。そして、ひたすら新針路の既成事実化だけが進行していくかに見える。私たちはこの異様な状況に対してただならぬ危機感をいだかずにはいられない。
問題は何か。それはどのように解決できるのか。以下において、私たちは、その問いを発して、社会全体に討論の気運が広がることを期したいと思う。
上に述べたような背景と意図の下に日米政府間で策定された新ガイドライン、並びにそれに基づいて国会上程されている周辺事態法案等は、日本国憲法に照らして多くの疑義をはらむものである。一言でいえば、新ガイドライン並びに周辺事態法案等は、日本国憲法の平和主義に真っ向から抵触し、その根幹を踏みにじろうとするものなのである。以下、その理由を挙げてみる。
(1)まず最初に確認しておきたいことは、新ガイドラインが依拠するところの日米安保条約そのものが、日本国憲法に照らせば違憲であるということである。たしかに、最高裁は砂川事件判決で、日本政府が指揮権・管理権をもたない他国の軍隊は憲法九条でその保持を禁止した軍隊には含まれず、したがって合衆国軍隊の目本駐留およびそれを根拠づけた日米安保条約は違憲無効とはいえないとする判断を示した。沖縄県知事代理署名拒否訴訟判決でも踏襲されたこのような最高裁の見解は、しかしながら、日本国憲法の平和主義を正しく解釈したものとは到底いえず、学界からも多くの批判が投ぜられてきたことは周知の通りである。憲法九条は、自国の軍隊であると、他国の軍隊であるとを問わず、日本の領域内においては一切の軍隊を保持しないという趣旨に解釈することが正当だからである。少なくとも、冷戦が崩壊した今日の時点で最高裁のような解釈をなお維持しなければならない理由はまったく存しないと言わなければならない。安保条約をもって対抗しなければならない「脅威」が存在しないことが明白になった以上、安保条約の存在根拠の喪失も明白になつたからである。
(2)このように、安保条約そのものが違憲であるという立場から見れば、それに依拠する新ガイドラインも、同様に違憲である。しかし新ガイドラインに関しては、さらに、それが日米安保条約を踏み越えた内容となっていることに伴う違憲性をも指摘することができる。すなわち、新ガイドラインは、現行安保条約にはなんら規定されていない「周辺事態」における日米軍事協力を規定することによって、現行安保条約よりもさらに踏み込んだ形で集団的自衛権の行使を容認するものとなっているのである。
しかも、重大なことには、このように現行安保条約をも逸脱する新ガイドラインは、なんら憲法が定める条約改訂の手続きを経ることもなく策定されている。いうまでもなく、憲法七三条三号は条約の締結に際しては国会の承認を必要と規定している。この規定が条約の改訂にも妥当することはもちろんである。そうである以上、現行安保条約を実質的に改訂する内容になっている新ガイドラインの策定についても当然に国会の承認を必要としていたというベきである。新ガイドラインがそのような国会の承認を得ることなく策定されたことは、手続き的にも違憲であることを示している。
(3)以上のような新ガイドラインの違憲性はそのまま周辺事態法案(以下、法案と略称する)等にも妥当するが、より具体的にこれら法案等に即していえば、以下のような問題点を指摘することができると私たちは考える。
まず第一に指摘しなければならないのは、周辺事態法案の中心概念である「周辺事態」という言葉のあいまいさである。法案一条は、「周辺事態」を一応「我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」と規定しているが、しかし、これでは、「周辺事態」の定義にはなっていないことは明白である。安保条約にいう「極東」とどう違うのかもまったく不明であり、いかなる事態が周辺事態なのかを客観的に判断することは到底不可能である。これでは、結局、日本政府が自衛隊の出動を必要とみなせばそれが「周辺事態」になる、と主張するようなものである。
しかも、驚くべきことに、この法案には「周辺事態」の発生をいかなる国家機関がどのような手続きで認定するかの規定がどこにも書かれていない。新ガイドラインでは、「調整メカニズム」を通して日米政府が「共通の認識」をもつことによって日本側がとる措置を決めるようになっているが、「周辺事態」が法案の言うように「我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」であるとすれば、そのような事態の認定は日本自身が主体的に行なうべきことは当然であろう。にもかかわらず、そのことが、法案に明記されていないのは、結局、米国が日本に協力要請をしてきた場合には、日本としてはそれを受け入れることが暗黙の前提とされているからであろう。主権国家の法律案にまったくふさわしくない代物というべきである。
それだけではない。法案一〇条によれば、「周辺事態」の「基本計画」については、国会に対しては単なる事後報告でよいとされている。これでは、国会の権能が無視されたも同然である。ちなみに自衛隊法でさえ、防衛出動に際しては国会の承認を原則的に必要としているし(七六条)、PKO法も、いわゆるPKF活動に関しては国会の事前承認を原則的に必要としている(六条七項)。政府当局者は、法案が国会の承認を規定していないことの理由として、迅速性を要するとか、国民の権利義務を直接的に制約するものではないという点をあげているが、しかし、これらはなんら正当な理由になっておらず、ためにするごまかしというべきであろう。このような法案は、国会が「国権の最高機関である」と規定した憲法四一条に照らしても、またシビリアン・コントロール(文民統制)の原則に照らしても決して容認できるものではない。
法案に関して第二に指摘すべきことは、以上のように曖昧きわまりない「周辺事態」の認定を踏まえて政府が行なう対米軍事協力は、
所詮は「武力による威嚇」または「武力の行使」にならざるを得ないということである。これによって、政府は憲法九条の最後の砦ともいうべき「交戦権の否認」規定をも踏みにじることになる。たしかに、法案二条一項は「対応措置の実施は、武力による威嚇または武力の行使に当たるものであってはならない」と規定しているが、しかし、これを額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜならば、法案一一条は、後方地域捜索救助活動や船舶検査活動に際して明確に武器の使用を認めているからである。しかも、これらの武器使用は、決して個々の隊員が自己の生命を防衛するための個別的な正当防衛権の域に止まるものでないことは、法案が部隊活動としての武器使用を容認し、さらには武器等防護のための武器使用(隊法九五条)の適用をも想定していることからも、明らかである。
ちなみに、政府見解によれば、憲法九条が禁止する武力行使とは「わが国の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行動」をいうとされている。後方地域捜索救助活動や船舶検査活動などにおける武器使用は、まさに自衛隊というわが国の物的・人的組織体によって、「周辺事態」という名の国際的武力紛争における戦闘行動の一部として行なわれるものである以上、憲法九条が禁止する武力行使に文字通り該当する。これを、個人的な正当防衛権や緊急避難権によって正当化することは、到底できない。
しかも、このような武力行使または武力による威嚇が、日本自身が武力攻撃を受けた場合ではない「周辺事態」に際して行なわれる以上、これを個別的自衛権の行使という形で正当化することも決してできない。政府自身が従来違憲としてきた集団的自衛権の行使に相当すると言うべきである。法案三条四項は、そのような批判を回避するためにか、たとえば後方地域捜索救助活動を行なう「後方地域」を限定的に定義付けているが、しかし、仮にこのような地域を確定することが可能であるとしても、上述したような意味での武力行使または武力による威嚇を日本自身が武力攻撃を受けた場合でないにもかかわらず行なう以上は、それは憲法が禁止した集団的自衛権の行使とならざるを得ない。
なお、法案及びACSA(物品または役務の相互の提供に関する両国政府間協定)改訂案は、「周辺事態」に際して、補給・輸送その他のさまざまな後方地域支援活動を規定しているが、これらの活動が直接的に武器使用を伴うものでないとしても、結果的には集団的自衛権の行使に踏み込まざるを得ない。政府の従来の解釈でも、集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」をいうとされており、必ずしも武力行使は要件とはされていない。直接的には武力行使を伴わなくても、後方支援活動といった形で、武力紛争の一方の側に加担すれば集団的自衛権の行使とみなしうる、少なくとも相手側からそのようにみなされても致し方ないのである。
第三に指摘すべきことは、この法案が、自衛隊の活動のみを規定したものではなく、自治体や一般国民をも広く巻き込むものとなっているということである。法案九条は、第一項において地方公共団体の長に対して「その有する権限の行使について必要な協力を求めることができる」と規定するとともに、第二項において、さらに「国以外の者に対し、必要な協力を依頼することができる」と規定している。ここにおいて、「協力を求めることができる」という規定の趣旨は明確ではないが、協力を要請された自治体の長が協力を拒否すれば違法状態が生じるというのが、政府当局の見解である。具体的には自治体が管理権をもつ港湾、空港、公立病院などの施設の利用について、さらには警察権の行使に関して、国から協力要請があった場合には、自治体の長はこれを拒むことは実際上困難になってくると思われる。こうして、自治体は、住民の生活や権利を犠牲にしてまで戦争協力の一翼を担うことを強いられることになるのである。
そして、これと同じような協力義務は、九条二項によって民間事業者や一般国民にも生ずることになりかねない。たしかに、この規定には罰則がないが、しかし、例えば民間企業に対しては、国が許認可権を利用してさまざまな圧力を加えるであろうことは、容易に推察できる。そうなった場合には、該当する企業の従業員は、業務命令という形で戦争への協力を強制されることになる。
最後に見過ごすことができないのは、周辺事態法案と同時に提案されている自衛隊法改訂案である。これによって、自衛隊機と並んで自衛隊の艦船によるいわゆる邦人輸送も可能とされるだけではなく、その際に必要とあれば、武力行使も認められることになる。このような改訂案は、邦人保護の名の下にアジア侵略を遂行していった、かつての日本帝国軍隊の悪夢を想起させるものといえる。武力紛争時における文民保護を規定したジュネーブ条約追加議定書にも調印しようとしない日本政府が、文民保護を強調することの真のねらいが、日本の海外権益確保のための自衛隊の海外派兵であることを、私たちは決して見過ごすことはできない。
以上みてきたように、周辺事態法案は、多くの点で憲法の平和主義に著しく抵触する内容のものとなっている。このような法案の成立を認めれば、憲法施行後半世紀の間形骸化の一途をたどってきた平和条項の中でからくも今日まで保持してきた最後の防波堤ともいうべき交戦権否認条項さえも無惨に踏みにじられることになるであろう。このような法案等を認めることは断じてできないのである。
私たちは、日米安保そのものが不動の前提であるという固定観念から解放されなければならない。第一次、第二次日米安保条約は、米ソ冷戦の産物であった。冷戦が終わった今日、日米安保体制の前提条件が消滅したことは明らかである。憲法の非武装条項は、冷戦を前提とした日米軍事関係の文脈において事実上踏みにじられてきたが、冷戦が終わった時代を生きる私たちは、非武装の条件を探り、整え、実現するための歴史的機会を手にしているのだ。冷戦下で結ばれた軍事条約である日米安保を、新しい安全保障関係で置き換える絶好の機会が生まれたのである。
この歴史的な機会を活用するどころか、冷戦が終わった段階で「戦争マニュアル」を受け入れ、戦時動員体制を導入するなどという行為が非常識・非合理であることは、誰の目にも明らかである。時代にそぐわなくなった安保は「再定義」によって存置されるのではなく、日本のイニシアティブによって、新たな平和を築くための取り決めに置き換えられるのが当然である。新しい枠組みを作り出す条件は成熟しつつあると私たちは考える。ただし、この条件を生かすためには、米国の意向にどこまでも付き従うという五〇年以上に及ぶ日本政府の惰性を振り切る必要がある。冷戦なき時代の今日、不幸にしてなお世界に軍事紛争の火種が絶えないとすれば、それはひとつには、米ソ両大国を頂点とした大国の、自己利害に基づく身勝手な綱の引き合いの後遺症である。ふたつには、南北間に広がる経済格差の現実と、資源配分や食糧・エネルキー消費量などに如実に現われる不平等性によるものである。こういう時にこそ、武器製造や戦争に依存しない経済システムを作り出すという、時間はかかるだろうが世界平和のために意味ある理念と行動が求められている。その道を選択するのではなく、もしいま敵意が存在するとすればその敵意を固定化し、あわよくば武力を行使して、世界を相互間の敵意で充満させようとする、この底知れぬニヒリズムは何なのか。後者の道を、米国と日本という、世界でも「超」の付く政治・経済・軍事大国が合体して、したがって世界から孤立して、歩もうとしているのである。
私たちは、日本政府の外交姿勢とは鋭く対時する以下の原則に則って、日本の外交イニシアテイブが発揮されるなら、状況は新しい未来に向けて切り開かれるものと信じる。なぜなら、これらの原則は、武器の製造・輸出・購入・行使を続ける世界中の為政者を批判しこれとたたかわなければならないと考える、世界の多数の人びとと繋がる道だからである。私たちは、状況は能動的に変えることができるという確信に基づいて、日本外交の当面の原則が以下のように立てられるべきであることを提言する。
(1)憲法前文ならびに九条に基づく外交を展開すること。これは安全保障を「国家」の安全保障から区別し、自国および他国の国軍の暴力にさらされてきた「民衆」の安全保障として定義し直すことを意味する。
(2)戦後五〇年間有余も日本国家が曖昧にしてきたアジアに対する戦争責任を明確にするとともに、元「従軍慰安婦」をはじめ日本の侵略と戦争犯罪の犠牲者に対する国家の法的責任を引き受ける。
(3)北朝鮮に住む二二〇〇万の民衆との間に、植民地支配の謝罪と清算はいっさい行なわれていない。日本独自の責任においてこれを行ない、朝鮮民主主義人民共和国との間の関係を正常化する。これは同時に、朝鮮半島の状況を変え、緊張をやわらげるイニシアテイブとなるだろう。
(4)上記に立って、米国の核の傘からの離脱を宣言し、核兵器廃絶へ向けて、南アフリカ、アイルランドなどの「新アジェンダ連合」とともに国際世論を結集し、国際条約による核兵器の禁止を実現する。これと平行し、「武器の国際取引の禁止」協定を実現する。
(5)アジア太平洋の非核化と大幅な軍事縮小のためのイニシアテイブをとり、「民衆の安全保障」の立場からアジア太平洋における諸国民衆の自主的で多角的な平和保障体制を構築する。政府間の平和保障体制と民衆自身の間の取り決めを並行的につくりあげ、発展させる。
(6)この立場から米国との間で、憲法上合法的な効力を持ち得ない新ガイドラインの撤回を手始めに交渉を開始し、日米安保条約を日米平和友好条約によって置き換えることで、沖縄と本土から米軍を撤退させる。
(7)この過程において、自衛隊を系統的かつ段階的に縮小し、最終的には自衛隊法を廃止して非武装化を実現する。
1998年8月15日
阿木幸男/芦澤礼子/天野恵一/新崎盛暉/飯沼二郎/池田浩士/井澤幸治/石黒ひで/石田精一/伊藤公雄/伊藤成彦/色川大吉/宇井純/上原成信/内田雅敏/遠藤誠/大河原礼三/大賀英二/大沢真一郎/太田昌国/大束愛子/尾形憲/小田切秀雄/小田原紀雄/川崎哲/川那部浩哉/鎌田慧/北村小夜/喜納昌吉/木村雅英/木下信男/工藤和美/国富建治/栗原幸夫/好村富士彦/越田稜/越田清和/小林直樹/近藤悠子/斎藤鶴子/斎藤千代/柴谷篤弘/島京子/白川真澄/白岩謙一/角南俊輔/高木正/高沢寅男/高田健/田口富久治/田中孝征/高堂要/高野ゆう子/高橋昇/田中美砂/田守順子/槌田劭/津田道夫/土本典昭/土井登美江/手塚弥太郎/永野仁/中西政子/夏堀正元/野添憲治/長谷川修/長谷川修児/旗手みどり/花崎皐平/平野正人/福士敬子/福富節男/藤本義一/舟越耿一/古沢宣慶/古荘暉/古荘斗糸子/前野良/牧野剛/松井やより/宮野由美子/武藤一羊/村田久/本尾良/元山俊美/安川寿之輔/弥永健一/山内敏弘/山口泰子/吉川勇一/脇義重/和田喜太郎
(八月十五日現在)
連絡先
東京都千代田区三崎町3−1−18 近江ビル4F 市民のひろば気付
「提言:新ガイドラインを問う」事務局
電話:03-5275-5989/ファクス03-3324-4118
多くの方のご賛同をお願い致します。賛同金は一口2000円です。提言に賛同いただける方は、振替用紙の通信欄にご氏名と肩書きを記入の上、左記の郵便振替口座へ送金して下さい。なお、振替口座加入者名のほか、口座番号も忘れずに記入してください。
振替口座加入者名:「提言・新ガイドラインを問う」
口座番号:00140-9-66450