(ニュース52号 99/02/01)
「戦争による彼我の死者を考える」と題して、「市民の意見30の会・東京」主催の集会を十二月五日に東京・水道橋で開催した。約六○名の方が参加し、講演を熱心に聞き、活発に意見交換をした。小田さん、Dラミスさん、お二人の話を編集部の責任でまとめたものと、福富さんが当日の話をもとに書き下ろした稿を掲載する。
昨年十二月五日の集会の名前は「戦争による彼我の死者を考える」であった。戦死という用語では、戦闘での死、戦場における死と受取られるので、私は「戦争死者」として、広い意味をになわせることにしている。
当日私は直接の体験か、あるいはそれとつながる所のある戦争死者について話すこと、もう一つはマニラ防衛戦においての「玉砕」を例として語ることにした。短い時間にこまごまと沢山の事例を目次のように羅列したので、どれも舌足らず、脈絡も見えにくく、来た方々にご迷惑をかけてしまった。ここも限られた紙面だから同じ愚を繰り返さないようにしよう。
私は樺太の野砲兵連隊に召集されたが、参謀本部の一機関であった中央特殊情報部で米軍暗号解読にたずさわることになり、そのためにルソン島に派遣され、あげくの果てはマニラからルソン島の北端まで専ら徒歩で敗走する破目になった。戦後私は戦争を振返った
り、考えたりする気持ちにはなれなかった。暗号に関することも全く頭の外においた。もちろん戦記もののたぐいには手をだそうとはしなかった。しかし私が生まれ育った樺太での戦闘とその前後の人びとの暮らしのことが気になりだした。一九四五年八月九日ソ連軍が樺太国境をこえて侵入し、それまで本土とは異なって何事もなかった樺太は戦場となった。しかも戦闘は十五日にも終わらず二十四日になって漸く日本軍が降伏することになった。市民が直接戦闘にまきこまれ、死んだだけでなく、さまざまな犠牲を背負った。かつて日本が経験したことのない経済制度の変化と生活の混乱を見ることになった。最後は島から放逐された。そのことから戦争について、調べたり、自分と戦争との関わりを考えるようになった。
戦場では、普通の暮らしでは想像もつかぬ緊張と弛緩の大きい落差を絶えず味わうことになる。それがある種のなつかしさを生むのか、戦争を語るとなると生き生きとなる人もある。おまけに、かつてたどった戦地を訪れる人もでる。戦死の地に碑を立てようとする人さえ現われる。そこには「彼我の死」ではなく、「我の死」はあっても「彼の死」は出てこない。他方若い人が戦争を語るときは、抽象的になるのは当然だとしても、私からすると理論めかしたり、「理論」構成に腐心しているとしか感じられないことが多い。
まず二つの死について書く。
一九○五年日露戦争の最後は樺太(サハリン)占領戦で、七月末サハリンのロシア軍が降伏して終わった。八月中旬、早くも日本は第一回の移民船を樺太の後に大泊といわれることになるに入港させた。私の父も乗船者の一人であった。しかしなお山中にたてこもって抵抗する二百余名のロシア兵がいた。これを日本軍は八月下旬西海岸から攻撃した。「進退きわまりて百八十名が白旗を掲げ降参せり。また翌日捕虜残らず銃殺せり」。この文面はこの戦闘に加わった日本軍兵士が自宅に送った郵便にあったもので、歴史学者の大江志乃夫さんが見つけたものである。二百名の部隊では護送できないという理由のようだが、「殺すな」どころか、この乱暴さに驚かないわけにはゆかない。
第二の例は一九四五年八月十五日の、阿南惟幾陸軍大臣の割腹自殺である。この事件は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という遺言が有名となり、感動をさそうように物語が書かれている。膨大な軍隊をかかえて、敗戦処理をせねばならぬ責務をこの陸相は放棄したことにはならないのか。陸軍大臣というものの職責は、そんなにも軽く、いくらでも代わりがきくものなのか。阿南大将の義弟竹下正彦中佐以下数名の将校は、近衛師団を動かしてクーデタを起こし、天皇を擁して戦争継続にもってゆこうと考えた。阿南は「西郷南州の心境がよく分る」などと言い、若い将校たちに共感を示していた。阿南の自殺に至る彼の周辺の将校の行動や阿南の動きは参謀本部所蔵『敗戦の記録』(原書房)に詳しく記されている。
このクーデタ計画は画餅に帰し、クーデタに暗黙の同意を与えていた阿南は全く立場を失った。簡単に言って、天皇に対しても、周辺の皇族や軍人たちにも会わせる顔がないところに追い詰められたのである。彼は日本軍のなかで政治的遊泳術を弄することに巧みな軍人ではなく、軍政の舞台は得手ではなかったようである。側近の若い将校らの未熟な言い分を拒むことができぬ小心さがあり、私の知る限りでは一種の臆病さがあったように感じられる。さきに書いた「大罪を謝す」というのも、昭和天皇へのお詫びであり、もちろん兵士にも、塗炭の苦しみを嘗めた国民にたいするものではない。この死を美談とする意識が変らぬ限り日本は変らないだろう。
年代的には、この二つの間にさまざまな戦争死がある。私の知る樺太に限ろう。ソ連の樺太侵入による沢山の犠牲、真岡の電話交換手の集団自殺(稚内の丘にある追悼碑には多くの疑点がある)、老人、子供、女性の避難船のソ連潜水艦の魚雷攻撃による沈没(八月二十四日)があり、ソ連侵攻の混乱のなかで夫の死を迎え火葬もできぬ有様で、已むなく庭に木を積み遺骸を焼き、遺骨を抱いて、稚内に密航してきたという異常な挿話もある。また八月十五日の直後、ソ連に内通するといって憲兵、警官、民間人が朝鮮人を集団殺害する事件が起こる。このおそるべきことも、ほとんど世の人に知られていない。これらの死にはそれぞれの様相があり、意味が異なる。
次にルソン戦における、マニラ防衛隊の「玉砕」のことを記したい。
防衛庁防衛研修所戦史室が編んだ戦史叢書があり、日中戦争、太平洋戦争について、約百巻から成っている。最高戦争指導会議の記録、大本営機密戦争日誌などのほか、多くの部隊の記録、部隊史、個人の回想などにもとづいて編纂されたものだが、下級の兵の回想記のようなものは採用されていない。粉飾もみられ上級幹部の間の庇い合い、ためらいも見られる。また特攻(特別攻撃隊)についての記述は、なぜか少なく簡略化されている。
しかし大本営、方面軍、軍、師団などの命令、指令、各種の電文が採録されていて、その点では興味深いものがある。以下「 」内はこの叢書による。
一九四五年一月九日米軍はルソン島に上陸し、マニラを目指した。七日朝に記者会見をしてマニラ死守を言っていた第四航空軍司令部(富永恭次中将)は同日夕刻に急遽マニラを逃れて北部へ移り、関連部隊もあわただしくマニラを去ることになった。さらに富永は勝手に台湾へ逃げた。一月末、米軍がマニラ郊外に達する頃、「市民は双手を挙げてこれを歓迎し、我が戦闘行動を阻害し、ゲリラ化せる一般市民にして、攻撃前に内通せられ、米軍進入の地帯は米国旗を掲揚し…」となった。マニラ市内では陸軍部隊もマニラ海軍防衛隊(マ海防)の指揮官岩淵三次海軍少将の区処下にあった。マ海防の上部機関(陸軍の振武集団)では、岩淵をマニラ市の外に出して指揮させようとした。総指揮をとるものが、最前線にいては全般の指揮に差し支えるというのであろう。マニラ郊外に出た岩淵は、上部への報告にも「状況報告に留めよ」と参謀に命じた。おそらく自ら弱音を吐かず、撤退は上部の命に拠ろうとしたのであろう。市内の陸軍部隊もマニラ撤退の命令を期待した。事はそう運ばず、刻々と完全包囲に陥りつつあるとき、指揮官の岩淵は、己の指揮下にある陸軍部隊の長の陸軍大佐が被包囲に陥り、海軍の少将である己が安全地にいることを気にして、マニラ市内に戻ることを決意する。彼は年齢五十歳である。自ら死地におもむく覚悟には悲壮なものがあったろう。彼の上部への電報を敢えてここに記しておこう。
勇士相次イデ弊レ残ルハ軍属及弱者ノミニシテ今次大戦ニ再起奉公ノ望ミナキ者 尤モ有為ノ士相当アルモコレ無ケレバ戦ハ出来ズ此処ニ最後ノ御奉公然ルベキナリ 単ナル玉砕ハ小官モ持ラザル所ナルモ一ツデモ多ク敵ノ首ヲ取ラシテヤリ度ク 小官此処ニテ一同ノ最期ヲ見届ケ度御蔭ニテ得難キ数々ノ体験ヲ得感謝ニ堪エズ
これに対し、上部機関からは「貴隊の壮烈勇敢なる戦闘は燦として青史に輝けり、崇高な御心事拝察して余りあり」とか「全将兵、貴隊の奮戦振りを範として敵必滅に邁進す」という電報が返ってくる。
岩淵の立て篭った建物も砲撃によって限界に達し、「二月二六日、岩淵少将自決」に至った。当初マ海防以下二万数千名の部隊であったが、脱出できたのは極めて少数であった。 世に讃えられる「玉砕」の姿である。脱出か否かの選択の余地の残されたところでの死である。進んで死地に戻る岩淵の心境は悲壮なものであったろうが、同時に使命感によって支えられもしたであろう。
しかしマニラには日本人の会社員も残っており、前記の岩淵の電文にもあるように、軍属もいた。彼らは軍に召集され、にわか作りの兵となった。そして岩淵少将のような使命感などとは無縁で「玉砕」の場面に立たされた。彼らの終焉の姿は、梅崎春生が小説「ルネタの市民兵」に書いている。たて篭もったビルも米軍の砲撃で半壊となり、僅かに身をひそめ、死をまつか、成功の望みのない脱出を試みるかの瀬戸際の兵たち、決して「玉砕」の主人公として讃えられることはない兵たちの姿がある。この小説に米軍の砲撃の小休止の間に飯を焚き、「みんな飯をくってけやあ、今のうち」と叫ぶ場面がある。小説の主人公は最後に自ら拠っているビルを単独で出て行き投降する。私はこれらに感動した。「殺すな」の対として「殺されるな」も認めたい。戦場では集団行動の方が恐怖が弱められ、自らの意志による単独行動がいかに困難なものかを知っているからである。また兵がいかに飢え、どのように腹を満たすかを書くところを戦争小説の評価の一つの基準にしている。いまどの様に戦争が書かれても、かつての兵のなげき、思い、恨みなどの心にとどくようなものが見あたらない。
猛烈な砲撃で瓦礫に化したマニラはフィリピン人のものである。市民も多く市外に逃れたが、なお数万の人が犠牲となった。破壊しつくされた建物はかれらの財産である。マニラ「防衛」での玉砕を語って、このことに及ばぬのは重大な欠陥である。
さて今の問題である。これからの戦争は、ミサイル攻撃のように、敵の所在もつかめず、何が何やら分らぬうちに、死ぬのかも知れない。しかしそれで戦争死の問題は消えない。小林よしのりの漫画本『戦争論』がしきりに問題とされるが、作為か不作為か誤りやウソを事実めかして散りばめつつ、日本の侵略を肯定しょうとするものにすぎない。この本を問題とする側も「牛刀を以て鶏を割く」式のものに見える。問題はこんな本が五十万部も売れるということである。同じ手法で、小林と逆の方から書こうというのはだめだろう。
大岡昇平の『レイテ戦記』は公式の戦記や旧軍幹部のものなど問題にならぬ充実した内容をもっているが、さまざまな軍組織名、軍隊用語は現在の人々にはとても読み難いものであろう。高木俊朗のインパール、ルソンの戦争や特攻の誠実な記録もいまや手に入りにくい。しかしきちんとした表現の文学、映像の存在はこれからも重要である。
私の考えでは、どんな戦場でも「美しい」「立派な」死などはない。それらはよんどころなくもたらされるのである。いま重要なこと、私たちの求めることは、そのような状況をつくりださせないことである。
(ふくとみせつお・数学者)