(ニュース53号 99/04/01)
パリのサッポロ・ラーメンの店で新聞を読んでいたら、読者投稿の川柳に出あった。「戦後が遠くなり、戦前が近くなった」ということ。残念ながら、脳みそが老化して、正確に思い出せない。その軽味を紹介できないのが残念です。
もしそうであるのなら、私は戦前の「戦前」と、いまの「戦前」を経験することになる。なんというしあわせ(?)。「戦前」の空気は、熱く、そして冷たい。
一九三〇年代と一九九〇年代。六〇年の時間は相似形を作りやすいのか。社会的還暦ということか。
もちろん大きなちがいもある。戦前の「戦前」、日本は戦争を名のらない戦争をしていた。いまは不安の「戦前」。まだ戦争はしていない。
しかしアメリカは毎年小戦争をして、世界でいちばん戦争の好きな国。そしてアメリカについていくことが無性に好きな日本政府だから、あと数年もすれば、小戦争の「後方任務」についているだろう。
一九三七年五月、文部省は「国体の本義」を全国の学校や社会教育団体に配布する。精神統一の号令。それに元気づいたわけでもあるまいが、七月七日、「シナ」事変がはじまる。
一九九九年、国会は「日の丸・君が代法案」をとおす予定。私のような老人は、「国体の本義」を思い出す。「君が代」の威力は絶大で、校長先生が命を絶つほどに強い。来年から全国の学校で、ゲンシュクに「君が代」が歌われることだろう。なつかしい!
「国家総動員法」の成立は一九三八年四月。「周辺事態法」は小「国家総動員法」にすぎまいが、後藤田さんの言う「蟻の一穴」かもしれない。
そして日本国民は「臣民」のように大人しくなっている。フランスで毎日のデモを見ていると、Gセブンのなかで、日本が「普通の国」でないことがよくわかる。
一九三一年、「満州」事変が起きる。全国労農大衆党は、九月二八日、中国出兵反対声明を出す。ところが社会民衆党は、十一月二二日、事変支持の声明を発表する。小さな亀裂……
一九三七年、「シナ」事変がおこると、社会大衆党はいち早く事変支持の態度を表明する。じつはこの政党は、前述の二つの政党が三二年に合同してできた。社会大衆党は、このとき総選挙で躍進したばかりで、三七名もの議員を持っていた。
戦前ならぬ戦争中に起こった戦前の無産政党のこの歩みは、九〇年代にあらわれた日本社会党の分解の過程と、ふしぎなほどに似ている……
私は一九八〇年に書いた小さい文章のなかで、「いま日本で進行しているのは、第二の八・一五に向かっての緩慢な歩みではないか」と書いた。(『戦後思想を考える』岩波新書、二三頁)
それから二〇年たって、サンタンたる国会風景がある。ひとことで言って、文字通り「陛下の反対党」が存在しない状態……、だから「君が代」に固執するのだろう。
明治にはじまる日本議会史をふりかえってみる。ほんものの反対党が存在した時機があったのだろうか。六〇年安保のころ、政府はさすがにいつも反対党の存在を意識していた。
不幸なことに、この活気を背景に冷戦構造があった。内発的な抵抗もあったが、外発的な戦略の影もつきまとっていた。これでは、ほんもののカウンター・パワーになりにくい。
私は、二度敗北して、ドイツの政治家と民衆が、はじめてひとつの自覚に手がとどいたことを重く見ている。その自覚とは、ドイツにとって、二つの「戦前」の時期に根をおろしていた習慣・慣習からの開放と自立だと思う。
日本ももう一度の八・一五を経験するのではないか。軍事的敗北に限らない。政治、産業、社会、精神などの領域での全面崩壊である。
「周辺事態法」と「日の丸・君が代法」とが同時に成立することは、世紀末にふさわしい。見事なとりあわせ。肉体と精神の同時制圧である。この路線が出てくるのは、二つの「戦前」の基盤が似ているからだ。
では、「第二の八・一五」のあとを支えるものは? 戦前の「戦前」とちがうたったひとつのことは、国会のなかではなく、国会の外に、「第二の八・一五」を自覚的に通りぬける力を持つ人々が、かなりの数、存在――あるいは散在――していることだろう。「一億総ザンゲ」だけはくりかえされまい。無駄に年をとっていないのだ。だからこそ川柳子の一句も生まれる。私は悲観主義でも楽観主義でもない。私は川柳子の眼力を信頼している。
(ひだか ろくろう・社会学者、在パリ)