(ニュース54号 99/06/01)


ユーゴ空爆について

ノーム・チョムスキー

 
 ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)は一九二八年生まれ。マサセーチューセッツ工科大学で長く教授。革新的な変形生成文法理論で世界的に著名な言語学者だが、ベトナム戦争に対する痛烈なアメリカ政策批判などでも大きな影響力をもち、反戦運動の先頭に立った。七〇歳だが、今も反戦の指導的な論文を次々と発表している。
 以下に紹介するのは、彼が参加しているインターネット上のホームページに発表されたNATOのユーゴ爆撃に関する論考。この問題についての多くの論文の中でも、チョムスキーのものは、事態を一九三〇年代にまで及ぶ広い視野で論じたすぐれたものであり、全文を訳出、ご紹介する。 (吉川勇一)

 コソボに対するNATO(といっても主として米軍によるものだが)の空爆については、多くの質問が出されている。この問題に関しては、Zネットの上の報道を含め (訳注1)、すでに多くの文章が書かれている。私としては、まだ正面から論ぜられていない事実に限って二、三の一般的考察をしてみようと思う。

 基本的な問題は二つある。第一は、一般に認められている妥当な「世界秩序にかんする基準」とは何かという問題であり、第二は、こうした基準やその他の要件をコソボの事態にあてはめればどうなるかという問題である。

(1) 一般に認められている妥当な「世界秩序にかんする基準」とは何か?

 国連憲章およびその下での諸決議や国際司法裁判所の決定を基礎として、すべての国家を拘束する国際法や国際的秩序の制度というものがある。一言で言えば、武力による脅迫あるいは武力の行使は、平和的方法による解決が失敗に帰したと国連安全保障理事会が認めた後で、それを明白に権威づけた(authorize)場合か、あるいは安全保障理事会が行動を起こすまでの期間、「武力攻撃」(狭い概念での)に対抗する自衛の場合でないかぎりは、禁止されているということである。

 もちろん、そう言っただけで不十分な面が残る。以下にのべるように、国連憲章と、第二次世界大戦以後アメリカの主導のもとにつくられてきた世界秩序の二次的な基本事項である人権に関する世界宣言にのべられている諸権利の間には、明白な矛盾とまでは言えぬにせよ、少なくともある種の緊張関係が存在する。すなわち、国連憲章は国家主権を侵害するような武力行使を禁止しているのだが、一方、世界人権宣言は、抑圧的な国家に対抗して個人の権利を保障している。この二つの間の緊張関係から、人道的介入という問題が生起してくる。コソボの事態で米国およびNATOが主張していることや、マスコミの論説、報道などが一般的に支持しているのは、まさにこの「人道的介入」の権利の問題である(ただし、マスコミの場合は、この用語を使うこと自体にも慎重である)。

 「法律学者ら、(コソボでの)武力行使を支持」という見出しの『ニューヨークタイムズ』の記事(三月二七日)が、この問題を扱っている。元アメリカ国連代表部顧問のアレン・ガーソンによるものがその一つだが、ほかに二人の法律学者の説が紹介されており、一つは、テッド・ガレン・カーペンターが、「政府の見解を嘲笑」し、介入権の主張を否定しているというもの、そして第三がシカゴ・ロースクールの国際法専門家、ジャック・ゴールドスミスの主張である。彼は、NATOの空爆に対する批判にも「十分な法的論拠はある」が、しかし「多くの人は〔人道的介入という例外が〕慣行の問題として現に存在していると考えている」とする。この論評は、記事の見出しにあるような空爆支持の結論を正当化するための論拠をまとめてのべたものだ。

 少なくとも、われわれがそのような「慣行」実行を決定していいだけの事実があると認めるかぎり、このゴールドスミスの意見は妥当である。だが、われわれはもう一つの自明の理も念頭におくであろう。すなわち、人道的介入の権利なるものが存在するとすれば、それは、介入当事者の「善意」を前提としているということであり、そうした想定は、介入当事者の表面的な言辞などではなく、実際の行動、とくに彼らが国際法の諸原則、国際司法裁判所の決定等々に、これまでいかほど忠実であったかという記録を基礎にしてなされるものなのである。例えば、西欧諸国が行動を起こそうとする以前に、イランが提案した虐殺を阻止するためのボスニア介入を考えてみよう。これらの提案は嘲笑とともに一蹴された(事実上は無視された)。もしそれに、権力への追従という以上の理由があったとすれば、それはイランに「善意」を想定できなかったからに他ならない。だが、理性ある人ならば、それに続けてあといくつかの自明の問いも発するだろう。すなわち、イランの干渉とテロの記録は、アメリカのそれに比してはるかに悪質なものであるのか否か。また例えば、国際法の遵守をすべての国に求めている安全保障理事会決議に反対した唯一の国の「善意」をどのように査定したらいいのかという問いであり、さらにまた、その国の過去の記録はどうなのかという問題である。そうした疑問が議論のテーマとしてはっきりさせられぬ限り、誠実な人間なら、それを独善的な政策への固執にすぎぬとして退けることだろう。今有効な試みは、マスコミであれ何であれ、こうした言説のうち、どれほどのものが、以上のべたような基本的条件を満たして残り得るのかを見定めることである。

(2)こうした基準やその他の要件をコソボの事態にどのように適用するのか?

 過去数年にわたって、コソボでは人道上の大悲劇が続いている。大部分はユーゴスラビアの軍隊によって起こされたものであり、犠牲者は主としてこの地域の住民の九〇パーセントほどを占めるアルバニア系コソボ人である。一般に、死者は二〇〇〇、難民の数は数十万とされている。

このような場合、外部の勢力がとるべき態度としては、次のような選択肢がある。

  (T) 悲惨な事態をさらに激化させる

  (U) 何もしない

  (V) 事態を緩和させる

 この三つの選択肢の例証としては、現代の同様な事態を見てみればいい。そこで、コソボとほぼ同規模な二、三の事例に限定して検討し、コソボはそのどのパターンに該当するかを見てみることにしよう。

(A) コロンビアの事例

 国務省の評価によると、コロンビアでは、同国政府およびそれと関連する準軍事組織による毎年の死者の数はコソボとほぼ同程度であり、主としてその残虐行為を避けて逃亡する難民は百万人を超えているという。コロンビアは、一九九〇年代を通じてアメリカの武器援助、ならびに暴力訓練を受け入れてきた西半球の中での主要な国で、それは今も増大の一途をたどっている。そうしたアメリカの援助は、「麻薬戦争」という口実の下で行なわれてきているのだが、およそ事態をまじめに見ている人なら、大方そんなことは信じていない。クリントン政権は同国のガビリア大統領を賞賛することにとりわけ熱心だったが、いくつかの人権組織がいうところの「身の毛もよだつような規模の暴力」は、ガビリアが政権にあったことに帰せられるのであり、それは、彼の前任者をはるかに凌駕するひどさだった。事実の詳細は容易に入手できる。

 このコロンビアの事態の場合、アメリカの反応は、(T)の「悲惨な事態をさらに激化させる」であった。

(B) トルコの事例

 ごくに控えめな評価によっても、九〇年代におけるトルコのクルド人抑圧はコソボの規模と同じ範疇に入る。それは九〇年代初めに頂点に達した。ある統計によれば、一九九〇年から九四年まで、トルコ軍による破壊活動が続く間、各地方からクルド族の事実上の首都ともいうべきジヤルベキールへ逃れてきたクルド人は一〇〇万を超えている。一九九四年には、二つの最高記録がある。ジョナサン・ランダルが現地から伝えたところでは、この年は、「クルド人居住地域における抑圧が最悪になった年」であり、また同時に、トルコが「アメリカの兵器の最大の輸入国となった年、したがって世界最大の武器購入国となった年」だという。トルコが村落の爆撃にアメリカ製ジェット機を使用していることを、人権擁護団体が暴露したとき、クリントン政権は、さまざまな手を用いて、兵器の引渡し停止を命ずる法の定めを潜り抜けたのだった。それはまさに、インドネシアなど、他の諸国に対してやったこととまったく同様だった。

 コロンビアとトルコによる(アメリカの支援を受けた)残虐行為を、両国は、テロリスト・ゲリラによる脅威から自国を防衛するためだ、と説明している。これもユーゴスラビア政府が挙げている根拠とまったく同様である。

 この事例もまた、(T)の「悲惨な事態をさらに激化させる」に該当する。

(C) ラオスの事例

 毎年、数千の民衆、大部分は児童か貧しい農民たちが、北部ラオスのジャール平原で殺されている。そこは、歴史上、民間人に対する最も激しい爆撃、そしておそらくは最も残酷な爆撃の場となったようである。貧農社会に対するワシントンの物凄い攻撃は、この地域の戦争とはほとんど関係のないことだった。その最悪の時は、ワシントンが(民衆および実業界からの圧力を受けて)対ベトナム交渉に入ることを余儀なくされ、北ベトナムに対する定期的な爆撃を終らせた一九六八年以降だった。それ以後、キッシンジャー=ニクソン政権は、航空機をラオスとカンボジアへの爆撃に振り向けたのである。

 死者は、「ボンビー」と呼ばれる小型の対人用兵器によるものだった。それは地雷よりもはるかに悪質なもので、とくに人間を殺傷するためにだけ設計されたものであり、トラックや建物などには何の効果もなかった。ジャール平原一帯にあふれるほど投下されたこの兵器の不発率は、製作にあたった会社、ハニウェルによると、二〇ないし三〇パーセントである。この数字が示すことは、品質管理がきわめて杜撰であったということか、それとも、この不発率は、投下時よりもはるか後になって民間人を殺戮するための合理的な政策に基づくものであったのかの、いずれかである。しかも、これらの武器は、そこで使用された最新技術のごくごく一部に過ぎなかったのであり、それ以外にも、住民の各家族が避難所にしていた洞窟をも貫通する高性能のミサイルなどもあった。現在の「ボンビー」による年間の犠牲者数は、一年間数百人と見積もるものから、『ウォールストリート・ジャーナル』のアジア問題ベテラン記者、バリー・ウェインが同紙のアジア版に書いているように、全国での年間死傷率は二万、そしてその半数以上が死者という評価にいたるまで、かなりの幅がある。そのあと出されたある控えめの評価でも、今年の危機的状況はコソボのそれにほぼ匹敵するが、死者の中で児童の占める率ははるかに高いとしており、一向にやまぬ悲惨な状態を緩和させようとして一九七七年以来活動を続けているメノナイト中央委員会の分析は、死者の半数以上が児童だと伝えている。

 この人道上の惨事を広く伝え、それに対応しようという努力も続けられている。イギリスに本部を置く「地雷撤去顧問グループ」(MAG)は、この致命的な兵器の除去に努力中だが、しかしアメリカが、ようやく若干のラオス民間人の訓練をすることには同意したものの、「MAGに同調する少数の西欧組織の中に加わっていないのはかなり目立っている」ことだ。イギリスの新聞も、アメリカはMAGの「作業の速度をはるかに早め、かつ安全度をはるかに高める」ことになる「危険除去措置」の提供を拒否したというMAGの専門家の主張を、ある怒りを込めて報じてもいる。これらのことは、アメリカ国内でのすべての問題と同様、国家機密とされたままである。バンコックからの報道は、カンボジアにもきわめて類似した状況があると報じており、一九六九年の初め以来米軍の爆撃が非常に激化した同国東部地域でとくに著しいという。

 このカンボジアの場合、アメリカの対応は(U)の「何もしない」に該当する。そして、これに対するマスコミやニュース解説者の態度は、沈黙を守り続けるというものである。かつてラオスでの戦争が「秘密の戦争」として計画された当時、それは周知の事実であったにもかかわらず、報道は抑えられた。また一九六九年三月以来のカンボジアでの事態のときもそうであった。今のマスコミの姿勢は、その時の規範を守っているものだ。当時の報道の自主規制のレベルは極端なものだったが、現在の局面もまさに同様である。この衝撃的な事例が現在の事態解明に大いに関連していることは、これ以上の説明を要せず、明らかだろう。

 (T)と(U) のその他の事例については省略しよう。それは枚挙にいとまがなく、そしてまた、とりわけ残忍な生物学兵器という手段を用いたイラク民間人に対するすさまじい大量殺戮のような、はるかに重大な悲惨な事態についても、ここでは触れない。一九六九年、イラクの児童が五年間のうちに五〇万人も殺されたことについて、全国放送のテレビで意見を求められたマドレーヌ・オルブライトは、「実につらい選択です。」しかし「この代償はそれに見合うだけの価値を持っています」という意見をのべた。現在でも、毎月約五千人の児童が殺されているとの評価が続いている。そしてその代償は、今なお「それに見合うだけの価値をもっている」というわけだ。クリントン政権の「道徳的羅針盤(コンパス)」が、ついにそれにふさわしい形で機能しつつある模様について、ただただ恐れ入るしかないような雄弁を読まされるときには、こういったような事例も思い浮かべるのもいいだろう。コソボの事例などはまさにそうしたものである。

 いったい、このコソボの事例は何を明示しているのか? NATOによる空爆の脅しは、予想された通り、セルビア軍による残虐行為の急激な増加をもたらし、また国際問題の専門家の離反をももたらした。そしてこのこともまた、セルビア軍の行為のエスカレーションという同じ結果をもたらしたのはもちろんであった。ウェズリー・クラーク最高司令官は、NATOが空爆すれば、それ以後、セルビア人のテロと暴力が強化されるだろうということは「まったく予見できることだ」と公言した。そして事態はまさにそうなった。テロ行為は初めて首都のプリスチナ市にまで広がったし、農村部における村落の大規模な破壊、暗殺、膨大な難民の流れの発生、おそらくアルバニア系住民の大部分を追放しようとする試みなどについて、信用できる報告がいくつもある。そのすべては、このNATOの脅しとそれに続く実際に武力行使の「まったく予見可能な」結果であり、クラーク将軍が正しくものべた通りであった。

 したがって、コソボも(T)のもう一つの例証なのであり、まさにそういう予想を事前にもちながら、暴力をさらに激化させようとする事例なのである。

 (V)の事態を示す実例は、少なくとも、政府筋の表向きの弁舌だけを見ているかぎり、見つけることはきわめて容易である。ショーン・マーフィーによる「人道的介入」にかんする最近の注目すべき学術的研究は、戦争を禁止した一九二八年のケロッグ=ブリアン条約以後の記録、そして、これらの各規定をさらに強化し明瞭にさせた国連憲章以降の記録を、詳しく検討している。第一の時期で、「人道的介入」の最も顕著な事例として彼が挙げているものは、満州をめぐる日本の攻撃、エチオピアに対するムッソリーニの侵略、そしてヒトラーによるチェコスロバキアの一部領土の占拠である。そのいずれもが、高い理想を謳いあげた人道的言辞を伴っており、事実の上でもそれを正当化する試みを伴った。日本は、「中国人匪賊」から満州人を保護するのだとして「王道楽土」を樹立しようとした。その際、日本は国民党(ナショナリスト)指導者のある中国人を担いだのだが、この人物は、アメリカが南ベトナムを攻撃するさいに担ぎ出しを考えたどんな人物よりも、はるかに信頼に足る人物だったのだ(訳注2)。ムッソリーニは、西欧の「文明的使命」なるものを持ち出しつつ、数千の奴隷を解放するのだとした。ヒトラーは人種的緊張と暴力を終らせるためだとするドイツの意図を謳いあげ、「この地域に居住する民衆の真の利益に奉仕したいという熱烈な願望に満ちている」作戦の中で、「ドイツとチェコの民衆の民族的個性を擁護する」のだとした。しかもそれは、これら民衆の意思に沿ってのことだとした。すなわち、スロバキアの大統領が、ヒトラーに対し、スロバキアをその保護領として宣言するよう求めたというのだった。

 もう一つ試みたらいい有益な知的実践は、こういったおぞましい正当化の言説を、「人道的介入」なるものも含めて、国連憲章制定以後の介入の際にのべられたさまざまな主張と比較してみることである。

 この時期のことで、もっとも注目せざるを得ない事例は、一九七八年十二月のベトナムによるカンボジア侵攻である。それは当時絶頂に達していたポルポト派の残虐行為を終らせることになった。ベトナムは武力攻撃に対する自衛の権利を主張したが、それは、国連憲章制定以後、この主張が妥当のように受け取られる数少ない事例のうちの一つであった。クメール・ルージュ体制(民主カンボジア、DK)が国境地帯でベトナムへの凶悪な攻撃を続けていたからである。これに対するアメリカの反応は検討に値する。新聞報道は、べトナムが国際法を真っ向から踏みにじったとして、アジアにおける「プロシャ」だという非難を投げつけた。ベトナムには、ポルポト派の大量殺戮を終らせたという罪で、手ひどい懲罰が加えられた。最初は(アメリカに支援された)中国による侵攻であり、ついで、アメリカが課したきわめて厳しい制裁措置である。アメリカはDKをカンボジアの正統政府だと承認した。国務省は、それがポルポト政権からの「継続性」を持っているからだ、と説明した。アメリカは、カンボジアに対して攻撃を続けるクメール・ルージュを支援したが、それをことさらに隠そうともしなかった。

 この実例は、「人道的介入という新しく生まれた法的規範」なるものの根拠とされる「慣例」について、さらに多くのことをわれわれに示してくれる。

 丸を四角と言いくるめようとする論者どもの必死の努力にもかかわらず、NATOの空爆によって、現在残っている国際法の脆弱な構造がさらに弱体化されたことについては、まっとうな疑問をさしはさむ余地はない。アメリカは、NATOのこの決定を導き出すための討議の中で、そのことを実に明々白々にさせたのである。イギリスは別として(この国の自立性とは、ゴルバチョフ以前の時期のウクライナのそれとほぼ同程度のものに過ぎない)、NATO諸国はアメリカの政策に対して懐疑的だった。とくにオルブライト国務長官の「サーベルをガチャつかせる(武力行使の威嚇)」(ケビン・カレンの表現、『ボストン・グローブ』紙、二月二二日号)には、当惑していた。

 現在、この紛争地域に地理的に近ければ近いほど、ワシントンが武力行使に執着していることへの反対が強くなっている。それはNATO内部においてさえもしかりである(ギリシャおよびイタリー)。フランスは、元来、NATOの平和維持軍展開を、国連安保理事会の決議によって権威づける(authorize)よう求めていた。だがアメリカは、「NATOは国連から自立して行動できるようになるべきだという立場」(国務省当局の説明)に固執して、その要求をにべもなくはねつけた。アメリカは、NATOの最終文書の中に、「権威づける」(authorize) というあとあとまで問題の種になるような言葉を含めることを拒絶したのだ。それは、国連憲章と国際法とには、いかなる形にせよ、権威を与えることを嫌ったからである。そして「是認する」(endorse) という用語を使うことだけを許した(ジェイン・パーレス、『ニューヨーク・タイムズ』二月一一日号)。同様に、イラクに対する爆撃も、それが実行された特定のタイミングですらもが、国連に対する侮辱の露骨な表現であった(訳注3)。また、それより数カ月前に、アフリカの一小国の薬品生産力の半分を破壊した行為にも、もちろんこれが当てはまる(訳注4)。それは、「道義的羅針盤(コンパス)」がたまたま正しい方角からはずれたことを示すような出来事などではない。かりに、この事件が、事実からして「慣行」実施の決定が適切だと考えられる場合だとするならば、それはただちに万人注視の下で再検討されるはずの記録であることは言うまでもない。

 世界秩序にかんする諸規則は、一九三〇年代後半にその意味を失ってしまったわけだが、それとまさに同じように、今日、この諸規則がこれ以上破壊されることは不適切だという主張は、かなり妥当といっていい論だろう。世界秩序の枠組みに対する世界の指導的国家による侮辱は、すでに極端なまでになっており、その結果、議論すべきことなど何も残されてはいない。国内の資料を調べてみれば、こうした姿勢(スタンス)はごく初期の時期、一九四七年に新しくできたばかりの安全保障理事会の覚書にまでさかのぼり得ることがわかる。ケネディの時代に入ると、この姿勢(スタンス)はあからさまな表現をとり始める。そしてレーガン=クリントンの時代での主要な変革は、国際法と国連憲章への正面からの反抗がまったく公然と実行されるようになったということである。それは、実に興味ある解釈によって裏打ちされてきたのであるが、もしも真実と誠実とに重要な価値があるとみなされるならば、この解釈なるものは、新聞の一面を飾り、初等学校から大学にいたるまでのカリキュラムの中で主要な位置を占めてもいいほどのものである。政府の最高の地位にあるものが、紛れもない明確さをもって、国際司法裁判所、国連、その他の機関が、戦後初期の時代とは違って、もはやアメリカの指令に従わなくなったがゆえに、それらが不適切なものとなってしまったと説いたのである。

 つぎには、この公的立場を正式に採用するものが出てくるかもしれない。だが、少なくとも、相手が変わるにしたがって、それに立ち向かう武器として、きわめて選択的に、独善的なポーズをとってみたり、侮蔑しきっている国際法の原則を操ってみたりという皮肉なゲームを断るという態度を伴うのであれば、それはそれで、正直な立場だということにはなるだろう。

 レーガン一派が新たな分野を切り拓いたとするなら、クリントンの下では、タカ派の政策立案専門家までもが心配し出すほど、世界秩序への挑戦は極端になってしまった。体制よりの主要雑誌『フォーリン・アフェアズ』誌の最近号で、サミュエル・ハンチントンは、ワシントンが危険な道をたどりつつあると警告している。世界の多くの人びとの目には、――いや、恐らく世界のほとんどの人びとの目には、アメリカが「ならず者超大国になろうとしている」と映っており、「自分たちの社会に対する唯一最大の外的脅威」と考えられている、と彼は言っている。現実主義的な「国際関係理論」によれば、このならず者超大国に対抗してそれと釣り合いをとろうとして連携する国家群が登場しうると予言されている、と彼は論ずる。したがって、プラグマチックな見地からすれば、この現在の姿勢(スタンス)は再検討されねばならぬことになる。また、自分たちの社会についてそれとは別の展望(イメージ)を選ぶアメリカ人は、プラグマチックな根拠ではない別の基盤にたっての再検討を求めるかもしれない。

 そうした再考慮は、コソボにかんしてどうすべきかという問題をどこに置くのであろう? 実は答えを出さぬままにしておくのである。アメリカは、自ら明白に認めているごとく、残虐行為と暴力をいっそう激化させる行動をとるというコースを選んだ――しかも、それはあらかじめ「予見可能な」道だったというわけだ。その行動のコースとは、国際秩序の制度に対して、さらにもう一つの打撃を加えるものでもあった。この国際秩序の制度は、弱者に対して、略奪をこととするような国家からの、少なくともある限定されたものにせよ、確実に保護を与えているものなのだ。長期的に見た場合、結果は予測不能である。まず妥当と思えるような一つの観測としては、「セルビアに落とされる爆弾の一つ一つが、またコソボでなされる民族的殺人行為の一つ一つが、ある種の平和のうちにセルビア人とアルバニア人とが互いに隣り合わせに暮らすことを不可能になるだろうということを示している」という説である(『フィナンシャル・タイムズ』三月二七日号)。ありうべき長期予想の結果のうちのいくつかは、きわめて醜悪なものであって、それはこれまで気づかれていなかったことではない。

 ふつうに言われてきた主張は、われわれは何もしないわけにはゆかなかった、残虐行為が続いているというのに、ただ傍観していることはできなかった、というものである。――が、それは決して真実ではない。常にそうなのだが、選択肢の一つに、「第一には、害になるようなことをするな」というかのヒポクラテスの原理に従うということがある。そして、その基本的原理に従う方策が思いつけぬのであれば、その時には、何もするな。いつでも、考慮し得る方策はいくつもあるものだ。外交と交渉は決してその使命を終えてしまったのではない。「人道的介入」の権利なるものは、冷戦の口実がその効果を失ってしまっただけに、今後数年の間、あるときは何がしかの根拠をもって、またあるときは何らの根拠もなしに、ますます頻繁に発動されそうである。そのような時代にあって、高い尊敬を集めている解説者の見解に耳を傾けてみるのは、無駄ではない。国際司法裁判所の決定はもちろんのことである。国際司法裁判所は、ある決定の中で、この問題について実に明快に裁定しているのだが、アメリカはそれに従うことを認めておらず、その要点の報道すらもされていない。

 国際問題および国際法という学問的な専門分野の中では、ヘドリー・ブル、あるいはレオン・ヘンキンの見解ほど評価の高いものは、他に容易には見当たらない。ブルは、今から一五年前に、「特定の国家、あるいは国家グループが、他の国ぐにの意見を無視し、世界共通の善について裁定する独断的な裁判官の地位に自らを置こうとするならば、それは事実として、国際的秩序に対する、したがってまたこの分野における効果的行動に対する、脅威となる」と警告した。一方、ヘンキンは、世界秩序についての規範的労作の中でこう書いている。「武力行使の禁止を弱めるような圧力があることは嘆かわしい。そしてこうした状況の下では、武力の行使を適法とするような議論には、説得力がなく、危険でもある。……人権侵害は、実際、あまりにも広い範囲で起こされている。そしてもしも、それを除去するのに外部からの武力行使が許されるとするならば、いかなる国が、他のいかなる国に対するものにせよ、武力の行使を禁じる法など、存在しなくなってしまうだろう。人権は擁護されねばならず、その他の不正も矯正されねばならないと私は信じるものだが、しかしその方法は、侵略に扉を開き、国際法における原理の進歩、戦争と武力の行使の禁止を破壊するようなものではなく、別の、平和的手段によってなされなければならないのである」と。

 国際法と世界秩序について承認されている原理、厳粛な条約上の義務、国際司法裁判所の決定、高い評価を受けている識者の熟慮の上の見解――こうしたものも、特定の問題を自動的に解決してくれるわけではない。一つ一つの具体的問題は、それぞれの理非曲直に応じて考慮されねばならない。サダム・フセインの基準をとらぬものにとっては、国際秩序の原理を侵犯して武力による威嚇あるいは武力の行使に訴えようとする場合には、十分なだけの重い立証責任がある。おそらくその立証はされうるのだろうが、しかしそれは感情的な言葉で声高に言われるだけのものではないものとして提示されねばならない。そうした侵犯の結果の評価は、慎重になされなければならない。とくに、「予見可能」だと理解する場合はなおさらである。そして、どうにかまじめだと言える程度のまじめさしか認められぬような場合には、その行動の理由も、また評価検討されねばならない。この場合もまた、国の指導者たちへの賞賛の言葉やその「道徳的羅針盤(コンパス)」だけによってなされてはならぬのである。

(訳 吉川 勇一)


(訳注)

1 Zネット → http://www.zmag.org/

2 「満州国建設にあたって日本が後ろ盾をした中国人」というなら、これは満州国皇帝に擬せられた溥儀のことをさすわけだが、しかし溥儀は中国国民党の指導者ではなかった。ここは Chomsky (あるいは、彼が引用しているMurphy) が、日本が一九四〇年に南京に作った傀儡中華民国政府の主席に担いだ王兆銘のことと混同したのかもしれない。汪兆銘は、国民党左派の指導者であり、蒋介石のライバルでもあった。

3 昨一九九八年一二月一七?二〇日の四日間に行われた米英両国によるイラク爆撃をさす。国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)のバトラー委員長が、「約束通りの全面協力をイラクから得られない」との報告書をアナン国連事務総長に提出したが、その件について、国連が審議を始めようとしているときに、その報告を根拠にして米英両国だけでイラク攻撃に踏み切った。

4 このアフリカの一小国とはスーダンのこと。昨年八月七日、ケニアのナイロビの米大使館付近で爆発が起き、米国人を含む 二四七人が死亡、同時刻にタンザニアのダルエスサラームの米大使館でも爆発、一〇人が死亡した。アメリカはこれを、イスラム 過激派のやったことだとした。スーダンはイランとの関係が深く、イスラム過激派に自国領土使用を認めていることなどを理由、米国はスーダンを「国際テロ行為支援国家」と認定した。そして、八月の米大使館爆破を契機に、その報復と対米テロを抑 止するためだとして、アフガニスタン領土内の「テロ組織の訓練施設」とスーダン国内の「化学兵器施設」に対し、八月二〇日、トマホーク巡航ミサイルの攻撃を加えた。これに対し、スーダンは、攻撃を受けた施設跡を公開、「化学兵器施設」などではなく、薬品工場だったとして強く反発した。


市民の意見30の会・東京
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