正義の戦争は恐い

ダグラス・ラミス

 正戦、正義の戦争はあるのか、というテーマですが、みなさんご存じのように「ある」というのが世界の常識です。意見としての常識であるだけではなく、世界のあらゆる組織の構造などに組み込まれています。国際法は正義の戦争はあるという前提で、国連憲章の最初に正義の戦争はあると書いてあります。国際戦犯法廷も正義の戦争は存在するという前提に立っています。例外は非常に少ない。正義の戦争は存在しないという意見の人もよーく質問すればどこかで正義の戦争は存在するという意見がでてくる。たとえば国際法廷で戦争犯罪を告訴すべきだという意見ならば、責任のある人たちと普通の兵士の行なった戦争行為を区別しているのです。戦争に参加した全ての兵隊を全て戦犯にすべきという残酷な意見をもっている人はまずいないと思います。侵略戦争は特にいけないと思えば、防衛戦争と区別している。多くの日本人、日本政府は中国に対して謝罪すべきだという意見で、やはり区別しているのです。

 戦争では何かのルールを守るべきというのが正戦論の基本です。欧州でルールがいちばん厳しかったのはたぶん中世です。国連はなかったけれど、ローマ法王に権威があって、戦争犯罪の定義ははっきりし、戦犯が罰せらたことも、停戦を守る法的義務も、停戦を監視する組織も存在していました。

 十七世紀に入ると、主に三十年戦争のとき、ローマ法王や国際的な権力が崩れて、中世では考えられない残酷な戦争になりました。そこで基督教の信者から全ての戦争は犯罪だ、人を殺してはいけないという意見がでてくる。それに対してグロピウスというオランダの思想家が、近代的な国際法の基盤になる古典を書き始めます。彼の目的は、全ての戦争はいけないという意見に対して、国際法をつくって、正しい戦争と正しくない戦争の区別ができるようにしたものです。

 正義の戦争理論には二つの側面があり、一つは正統な目的、防衛戦争とかの大義名分がある。もう一つはルールを守ってやる戦争で、今の国際法にも二種の権利が生きています。国連憲章ができてから今年まで正統な防衛しか認められていなかった。侵略されて初めて戦争してもいいということだった。

 戦争にはいくつかの基本的ルールがあります。非戦闘員を殺してはいけない、捕虜を殺してはいけない、残酷な武器、毒ガス、体の中で爆発する軟らかい金属でできている鉄砲の玉とかは使ってはならない等々。それらを守る努力は多くの国でなされていると思います。それに主にユーゴスラビアの内乱から、軍隊や戦場で戦闘している男たちが、女性を強姦すると戦争犯罪になると新しく加えられました。

 正義の戦争論を真剣に考えれば、いくつかのジレンマがでてくる。どこで道徳的線を引くかと考えるとわからなくなる。全ての戦争は等しく同じくらい犯罪である、と断言すれば世界中の何百万人に対するものすごい批判になります。あらゆる戦争に参加した兵隊は、解放軍であろうが、徴兵された兵士であろうが、戦争犯罪者にしたらものすごく多くの人を非難することになる等。その立場でいいのかということが問題になる。逆にその人たちは非難しないけれど、正義の戦争はあったとしても私は人を殺さない、という立場もあります。そうすると個人的立場になって、法的に明確にならない、などというジレンマなんですね。

 このジレンマからどうやって抜け出るかの問題に私もずーっと悩んできているわけで、いま考えている最中のことしか紹介できませんが、正義の戦争がない、ではなくて、正義の戦争はあるから困る、と思っています。全ての戦争が同じような犯罪であるならば、反戦運動はものすごくやりやすい。全ての戦争がホロコースト、全ての戦争は難民虐殺、全ての戦争はヒロシマ・ナガサキと同じであるならば、戦争反対はやりやすい。正義の戦争があるからやりにくい。逆に正義の戦争がいちばん恐いかもしれない。

 現実主義反戦平和論は考えられないかと最近思っている。いままで日本なら再軍備を進める人たちが現実主義者だと言われています。反戦運動している人たちは、自分たちを現実主義者とは呼ばないで、なぜか倫理道徳の目的に立つとしている。これは逆です。国家という組織が無条件に武装化するととても危ない。国家は武器をもって国民を守ってくれるというけれど、国家が武器を持てば持つほど国民の命は危ないです。これは二十世紀の歴史の記録にあります。場合によって今の戦争は正義の戦争、と認めて武装化すれば、それはいつか必ず国民に返ってきて、その代価を払わなければならない。

 二十世紀に国家の交戦権によって殺された人間の数が約一億五千万人、その約半分以上が自国民で自分の国家によって殺されています。国家に武装化、戦争権を許したら、こんどは可愛らしい政府になってそんなに簡単に人を殺さないで安全だろう、という考え方はとても非現実的だと思います。たぶん二十世紀と同じようなことを続けるだろうと。却って政府に武装を許さないということは現実的な考え方ではないかと思います。正義ではなくて、危ないからという言葉で言う方が現実的ではないかと思うのです。

(まとめ : 梶川 凉子)