コソボが問いかけること

杉原 浩司

私はユーゴの爆撃についてこだわりたいということで、新聞や雑誌を中心に調べながら考えてきました。そのへんを紹介しながら、今日のテーマである「非暴力的な平和を作る」ということ、また「軍隊」の問題について問題提起したいと思います。

ユーゴ空爆について

ユーゴの空爆の特徴は、超ハイテクの兵器であれだけの爆撃が行われたことと、その大義名分に「人道的介入」という議論が公然とだされてきたことです。正義とか民主主義とか人道とか、普遍主義という言葉がさまざまなところで議論されてきました。

けれどもその背景には「紛争が拡大する前に、積極的に軍事介入をする」ということがある。けれども実際に東チモールにも同様の発想からすれば、インドネシアのジャカルタを空爆するという話になるのですが、けっしてアメリカも国際社会もそういうことはしない。つまり非常にアメリカの恣意的なものである。国防次官補をしていたジョセフ・ナイも、「アメリカの国益をどう判断するか、その判断によって軍事介入を決めろ」と言った。

もう一つは、攻撃する側にとって、自国兵が死なない戦争であるということです。今回の空爆では事故や演習でアメリカ兵が二名、ドイツ兵が一名死んだのみで、実際の戦闘ではゼロです。それに対してユーゴスラビアの側は避難民を含めて、民間人、軍人数千人が殺されているというのが現実です。両者の間で死者をだすものだというのが戦争の概念だったのですが、それを今回の戦争は歴史的に転換させたといえるでしょう。つまり一方的な「懲罰」で、それによってアメリカの武力行使をする敷居が低下しました。

さらにまたNATOが四月に採択した新戦略概念、自分たちの同盟の軍隊が攻撃されないときでも軍事介入をするという作戦のテストケースでもあります。

ユーゴ空爆支持論

  次に今回の戦争をめぐってどのような言葉が投げかけられたか。戦争を支持し、正当化した論理からみていきたいと思います。

スーザン・ソンタグが「今回の空爆を批判する面もあるけれど、基本的に他に手段はなかった。正義の戦争も一つのケースである」と言ったり、ドイツのハーバーマスが、「緊急救助」という概念で今回の空爆をとらえ、今までの国際法が前例としていた国家主権の壁を意識的に破ることにより「人権」を守るものではないかと事実上支持していると伝えられています。ドイツの緑の党のフィッシャー外相は、「モラル」と「同盟への忠誠」の論理で空爆を肯定している。

「モラル」についていえば、ドイツでは、ミロシェビッチをヒトラーになぞらえて、コソボの事態を見逃すことは、かつてのドイツと同じことになる。ミュンヘン会談のイギリスやフランスが、曖昧な態度をとったがために、それ以降ヒトラーが勢力を伸ばした、その教訓にもとづいて今回は断固とした態度をとるべきであるという言い方で戦争を正当化しました。

日本で空爆を支持する論調のなかで、私が見過ごせないと思ったのが三つありました。一つは「人間の安全保障論」。これはもとは国連が言いだした概念で、環境だとか人権だとか社会的な安全も含めて保証していくという論理です。これが今回の空爆を支持する論理の中で使われてしまっている。日経新聞の編集委員の伊奈久喜さん、政治学者の猪口邦子さん、岡本行夫さんの主張です。

もう一つは「人権の普遍化論」で、山崎正和さんが、世界的な悲惨を人間の自然な感情として見逃せない、その延長として今回の空爆があった、と積極的に空爆を支持している。

さらに佐瀬昌盛さんは、人道的介入ということで国家主権の壁を破り、国際法を乗り越えるかたちで空爆が行われたのだから、今度は制度のほうもそれに合わせるべきだ。だから国連憲章を見直そう、という言い方をしています。

ユーゴ空爆批判論

これに対して批判的な論理はどうだったかというと、メアケルというドイツの学者が「これは脅迫戦争だ」と。ハーバーマスが「緊急救助」という概念で戦争を正当化していたけれどもそれは間違いである。空爆によって罪のない市民が多数殺されたことは、無関係な第三者の侵害禁止に明らかに反していると批判している。これは非常に大切な批判だと思います。

市民の意見30の会の『ニュース』に翻訳が掲載されていましたけれど、ノーム・チョムスキーという反戦運動家は「害になることをするな」と言っています(『ニュース』54号参照)。実際に紛争に対してそれを黙認するか、あるいはより悪くするか、良くするかという選択肢があるなかで、あきらかに空爆は悪くした、と緻密に分析して述べています。そして基本的には害になることをしないというのが大前提だと、主張しています。

スラブォイ・ジジェフという旧ユーゴスラビアの人は、今回の空爆はアメリカ主導の経済を守るためにすることだ。アメリカもミロシェビッチも支持するわけではない選択をするべきだと。そのために二重の恐喝に対する抵抗として国境を越えた政治制度をつくるべきである。さらにマスメディアの発達によって、今の戦争は殺す人を少なくしたほうが勝つという戦争になってきていると分析しています。

日本では加藤周一さんが、国際法を破ったということが、むしろ逆に伝統的な紛争を解決していく知恵を、徹底的に破壊したと批判しています。あるいは小田実さんは憲法九条の立場にたって、良心的兵役拒否国家としてたつべきだという見方をしています。

 私たちはこの賛否両論にたって、冷静に分析することで、今回の空爆が何をもたらしたのかということを省みるべきだと思います。

空爆以外の手段

また今回、空爆しか手段がなかったという言い方がされますけれど、そうではないことを示す二つ重要な事実があります。

一つはOSCEが非武装の監視団をユーゴスラビアに出していたのですけれど、それが空爆をするということでそそくさと撤退したために、コソボの人々への抑圧を監視する目がなくなったのですが、この事態をどうとらえるか。また、ウォーカーという団長がラチアク村での虐殺を一方的にセルビアのものと決めつけたために、空爆にはずみがついたという事実です。

もう一つはランブイエで空爆の直前までアメリカが中心に和平交渉をしていたのですが、その内容が、いかに強引なものであったかということです。戦争の後であきらかになったが、その内容は、事実上NATO軍がユーゴを無条件占拠する。そして何をするにせよNATO軍は拘束されないという、民主的な大統領になったとしても、きっと拒むであろうといわれるほどの強い内容のもので、NATOとりわけアメリカは戦争を前提として、そういう内容をユーゴに押し付けたという批判が始まっています。

ユーゴの空爆をめぐるいろいろな問題が、まさに現在進行形でだされているということを、この問題を考える手がかりにしてもらえればと思います。

人道援助と軍隊

今私たちに問われていることは、一つは人道援助と軍隊の問題です。その一つとして、情報をしっかりと私たちは知る必要があると思います。

次に非暴力的な紛争解決が可能なのかということで、これについてはいろいろなところで議論がされています。

ハーグで行われた平和会議でもその問題が議論されて、ヨーロッパの中ではそういった議論が日本よりは進んでいるのですが、実際にどのような原則で非暴力的な調停とか、監視団といった活動が行われるべきかという議論がはじめられている。また政治学者の武者小路公秀さんらの「ネルソン・マンデラのような人が調停に入ったり、あるいはNATOではなく国連とかOSCEが中心になって、非軍事的なかかわり方を追求するべき」といったさまざまな具体的な提案を、私たちはきちんと議論していくべきだと思います。

また憲法学者の水島朝穂さんが紹介しているのですが、たとえばミロシェビッチに反対している市民のメディアを具体的に支援したり、あるいは平和の架け橋団のように現地にのりこんだりといった活動。あるいはまた国際平和旅団という組織は、丸腰で紛争地域の大切な人物を護衛したり、あるいは虐殺や抑圧があったらそれをすぐに国際的なネットワークによって広めて政府に圧力をかけるといった組織的なかかわりを続けている。それを水島さんは外側からの圧力で紛争をとめるのではなくて、内側の力を援助することでとめる、ということで「平和のエンジンブレーキ」と呼んでいる。

地雷禁止条約を作る中では、カナダとかNGOといった政府が連携してキャンペーンを行って禁止条約までたどりつきました。あるいは核兵器の問題では同じく積極的な国々と中堅国家構想というNGO、市民との連携がはじまっています。ゆくゆくはそういう取り組みからヒントを得て、実際に紛争を非暴力的に解決していく、そういう国際的な非軍事ネットワークというものを描けないか。ジャーナリストや医師、さらにNGO、自治体、政府、そして利害をなるべく持たない中小国が連携するということが大切なのではないかと私は思っています。ただその時日本の場合、とりわけ問題になってくるのは、日本政府はNGOを活用しようとして動いているということです。たとえば、明石康さんが代表になっている「予防外交センター」のように、そこには軍事的な関与を進めようとしている人たちが中心に入っている。つまりNGOと軍事の並行路線ということを政府の側は進めている。ですからそういったところと私たちとはどこが違うのかということを鮮明にして、どのようにそのような動きを批判すべきなのか、ということが重要になってくると思います。

そして国際機構をどのように変えていくのか。あるいは極東アジア地域の平和保障のシステムをどのように構築していくのか。また日本の自衛隊の海外への活動の拡大、そういうものにどのように対応していくのか。東チモール現地の救援をすすめながら自衛隊の問題について批判していくという平和救援プロジェクトの試みのように、私たち自身の積極的なオルタナティブをどのように出していくのかということが問われると思います。

さらにもう一つはラミスさんの話にからみますけれども、正戦論というものをどういうふうに批判していくかということです。

(まとめ : 高岡 甫雅)