Q ラミスさんに。日本国憲法は絶対的平和主義の立場に立つと思いますが、それはやはりヒロシマ・ナガサキや、二十世紀の経験を踏まえて、もう相対的平和主義は駄目なんだという決意、覚醒の下に作られていて、今までのヨーロッパの考えでは駄目だと思うのに、なぜ今更絶対的平和主義は駄目だと言われるのか。ラミスさんは戦争犯罪があるの前提は、即ち、犯罪でない戦争はあると、ここは納得できたのですが、それが何故正義の戦争の考えにイコール繋がるか、最後の段階に飛躍があって納得いかない。杉原さんの報告の最後の「問われていること」が私も共感した点ですが、従来の平和運動は、例えば地雷廃絶運動、難民を救ける会等と何故協力できないのか。平和運動の中にも断絶がある気がします。それと「人権」の言葉をどう思っているのですか。例えばボスニアで、イスラム教徒たちが「戦って死にたい」といった。人間はある尊厳のために生きているというので、そういう問題に対して杉原さんのお考えを伺いたい。吉川さんが戦争が起こってしまったら、その時点で平和運動は負けで、そうなる前に何かをしていかなければいけないというのはその通りで、そうであれば既に平時に軍縮や地雷廃絶運動でどう平和を作っていくのか、市民の意見30の会がどう取り組んでいくのか伺いたい。
ラミス 質問は戦争犯罪を認めるのが何故正義の戦争を認める、になるのかということだったと思います。最初に話したように正戦論は世界の常識で、あまりにも常識になっているから潜在的に平和主義者の中にも入っていると思います。戦争っていうのは人を殺すことです。私はちょっと皮肉が入っている意味で正義の戦争があると言ったので、誤解を招く言い方だったかもしれません。正義の戦争こそ怖いという意味で言ったのです。正義の戦争の基本は、国家は交戦権を持つ、つまり正統な暴力を使う権利が国家にある。兵隊は人を殺しても殺人犯にならないと認めた場合、それは正義の戦争を認めているのだと思います。私たちの頭の中にテロリストと軍隊行為、戦争のルールを破った行為と、ルールを守りながら人を殺した行為を区別している。区別している限り正戦論を認めているのではという言い方をしたつもりです。
杉原 何故平和運動は地雷廃絶、難民を救ける会とかと協力できないのか、について。私は個人的に一時期、対人地雷をなくす会というグループに入っていましたが、その後遠ざかってしまいました。難民を救ける会のことをちょっと話すと、中心的な人が、自衛隊の海外派兵について非常に積極的で、PKFの凍結も解除すべきとか、それを朝日新聞の論壇に書いたりしてる、そのへんに違いを感じる。或いは日本政府との関係をどうとるのかというときに、救ける会は中曽根氏にポスターを書いてもらったりとかがが平気で、僕はいくら平和運動のためでも中曽根氏のところへ行って、ポスター書いてとは言えない。現実主義的になりきれなくて、色々な側面で違和感がありました。もちろんそうは言っても、難民を救ける会を全然駄目だというつもりはなく、そこから学ぶべきことはあると思うので区別してつきあえばいいと考えています。インターネットでの発信とか、ロビー活動にしても重要人物への接し方とか、具体的話し方等を含めて緻密に考え抜いてやってます。それらを勉強して他の取組みにも生かしていきたいと思っております。
二番目の人権をどう位置づけるかについて。ボスニアのイスラム教徒が「戦って死にたい」といったことをどう見るか、不勉強ですが、人権という価値観は昔からある考え方ではなくて、欧州の中で作られてきて、歴史的にまだ浅い考え方で、残念ながらグローバルな基準になってないのではないでしょうか。様々な国や人々がいるのだから、単純に「人権」の言葉で現実を切るのが、全てのことに正しいとは言えないのではないか。例えばソマリアにかつて平和執行部隊がアメリカを先頭に行ったが、直接戦争当事者になっちゃって人を殺した上、米兵が十数人殺されて一気に帰ったことがありました。国境なき医師団などの人たちの批判は、国連の名の下に人権とか民主主義とかの基準を強制的に押しつけるという発想自体が問い直されるべきだということでした。あの辺には伝統的に長老が物事を調整して決める紛争解決法があり、その地域に根づいた方法で、それを尊重する姿勢がないと却って有難た迷惑という事実があります。人権人権って大きな声で言う人たちの人権は全ての人たちに同じように適用していない。コソボ・アルバニアにしてもセルビアの人たちがアルバニアの人と同じように殺されているのにきちんと対応していません。東チモールについても。自分たちの利害等に基づいて人権を使うことが昔も今も同じようだと思います。ボスニアの問題で「戦って死にたい」ということをどう考えるかについては、まあ、しょうがない(笑)。でもその死にたいっていう願望はだいたい作られているわけですから、そういう人たちに対してはやっぱり「違うよ」と言うべきではないかと思います。
吉川 内戦の原理について、何故非暴力と言わないのかということについて。アメリカ憲法には人権はずいぶん強調されていますが、革命の権利は規定されていません。独立宣言には非常に明瞭にあります。アメリカは自ら独立を勝ち取って政府を作ったので明瞭なのでしょう。政府は人民の委託に基づいて人民の幸福のために存立している。それが政府自体が人民の権利を侵害した場合、人民が抵抗してそれを覆して、自ら選ぶ政府を作ることを認めた非常に素晴らしい宣言だと認識しています。いまアメリカの国民がそこを読むと共産主義者が書いたのかという笑い話になったりします。でもその権利は認めざるをえないことになり、すると政府は暴力を国家の中で独占しているから、軍隊、警察権を使って人権を蹂躙する場合、人民の側で抵抗するのに非武装、非暴力でなければいけないと一般的にいうことはできない。抵抗する際の手段を人民自身の手で決められるし、むしろ政府の側が使うべき手段を人民が拘束することができる。一方それを私は日本でするつもりはない。私が人民軍の創設をしたり自衛隊を我々の側に獲得して政府に武器を向けたりするという説には与しない。却って逆効果です。非暴力は無抵抗だというのは、とんでもない。非暴力とは最大の抵抗の一つで、およそ勇気のない人にはできない。ガンジーはとても勇気のある人じゃないかと思っています。さきほどラミスさんが言われたD・デリンジャーは第二次大戦、つまりヒトラーに対する戦争にも反対した。神学生は徴兵されないという権利を使わず徴兵を拒否して逮捕される。その後何回も牢屋に入れられます。朝鮮戦争の時ももちろん反対して、ニューヨークの街頭で演説したとき、自分の息子を朝鮮戦争で殺された父親から噛みつかれます。彼は「あなたの好きなようになさい」と言って徹底的に殴られて失明します。そのとき彼は殺されたかもしれない。非暴力に徹するということはそこまでするということです。
市民の意見のニュースにでていますが、市民的不服従として具体的提案をします。最も近いのはお子さんがいらしたら、来年の三月、卒業式や入学式で日の丸が立てられ、君が代が歌われますね。出席している家族の人は、口を動かすことにするのか、やめろと叫ぶのか。ご起立と言われたとき、国技館に行ったとき、サッカー場に行ったときどうするのですか。全員が立ったら立つのですか、立たないのですか。また、宣言文のご賛同を頂きたいですが、こんなことから始めていただけませんか。一人一人の勇気の訓練も必要だと思います。これも一つの取り組みです。
もう一つは兵器の国際取引の禁止の運動です。地雷の禁止と合わせて、これは日本政府に迫り、日本政府を通じて世界各国政府に届く運動を日本国民はやる必要があるのじゃないですか。いくつもの最近の紛争を見ると、どう考えたらいいかわからないですね。日本としては原理に立つしかないんだと、つまり戦争はよくない、正義の戦争はない、日本は絶対に武器を持ってはいけないんだという原理に立ち、その上でどうしたらいいのか考えるより仕方がないのではないでしょうか。
Q ラミスさんに伺いますが、戦争犯罪として認められるということは、どういうふうに効力をもつのでしょうか? 強姦が戦争犯罪として初めて認められて、今後戦争が起こったときにどういうことになるのでしょうか。例えば、第二次世界大戦の慰安婦問題などどうなるのか教えてください。
Q 中国の八路軍が日本の侵略に反対して抵抗したのは、国家の軍隊ではないと思うのですが、民衆が組織を作って抵抗したのではないか、これを戦争と呼ぶのか、国家と国家の戦争ではないが民衆の側からは日支戦争と言えるのか、そのへんが判りませんが。
Q ファシスト政権が侵略してきた場合、抵抗権と暴力について、殺すなという絶対的平和主義と恒久平和権と、どう整合させるのかについて伺いたい。
吉川 八路軍の対日戦争は、彼らが抗日戦争といっているから戦争と認めていいのじゃないか。戦争と呼ぶ人はそれでもいいし、人民の抵抗だというならそれでもいい。ただ私はやらない。私は非暴力の立場に立つということを申し上げたんで、それをどういうかは学者に任せたい。
ラミス ユーゴスラビアでの強姦行為が戦争犯罪として人が拘束されている中で、何人かは牢屋に入るでしょう。国際的に認められたことでいくらか被害者の治療になるかもしれない。しかし逆に国連という組織が人を告訴することができるようになって、初めて国連は刑務所を持った。逮捕して有罪判決を出して、牢屋に入れるのは今までなかったのです。突然国連憲章を変えないで持つようになった。場合によってはとても恐ろしい国連がこれから出てくるかもしれない。つまり正統な暴力を独占する国連になった。これには非常に慎重に考えるべきだと思います。中国の抵抗戦争については吉川さんが答えたと同様に戦争だったと思います。人を殺してもその人たちは殺人ではなく、戦争をしているという意識でやったと思います。中国の軍隊は戦争のつもりで、抗戦権があると思ってやった。自分たちがファシスト政権に侵略されたときどう考えるか、ということですが、吉川さんの話の中でガンジーの場合がでてきました。私も非武装抵抗は勇気が必要だと思います。それだけでなく、ガンジーは聖人という評判になっているけれども、逆に非常に現実的な政治家であったという面も評価しなければならない。非暴力抵抗して一人で殺されてなんの効果もないセイントは世界の歴史の中に沢山います。そうでなくて、彼は実力を作った。インドは独立できました。それはガンジーの運動の特徴です。ゲリラ戦争をやって抵抗することに当事者でない人が、なかなか批判できないという点は吉川さんと同じだけど、インドのガンジーの場合はゲリラ戦争をもしやったとしたら、もっともっと人は殺されたと思います。非暴力で抵抗しても人は殺される。戦争やってもそうなのです。絶対に勝利が保証される方法はこの世に存在しない。非暴力抵抗で力を作ることができるのを忘れちゃいけないと思います。
杉原 抵抗とか民衆がやむをえず武装して戦うことは、今でもありますが、忘れてならないのはそういった抵抗の軍隊だったのが、自分たちの国家を作ったその後にむしろ人々を抑圧する軍隊となったケースもいっぱいあったことです。軍隊とは恐ろしいもので、歴史的事実なのですから、そこをきっちり議論しなければいけないと思います。それと、日本はとりわけカネによる暴力、間接的な虐殺ということをずっとやってます。湾岸戦争だって、百数十億ドルのカネがなければあんなことはできなかった。東チモールだってインドネシアをずーっと経済援助の形でそっちの側に立っていた。そういうカネの暴力に対してもきちんと認識することのが大事で、そこを正戦論を含めて議論したい。吉川さんが言われたことで、ピンポイントの精確さについて、それでも第一次、第二次大戦の軍隊のやり方に比べれば、もちろん数が少なければいいわけじゃないけど、なおかつ意識的に戦死者を少なくしようとしているのも事実ですね。公然と無差別爆撃をする正当性がなくなっていることで、それはある意味では積極的な面ではないか。それこそすごい無駄なカネを使ったハイテク兵器で戦争の意味さえ判らないような戦争で、戦争とか軍隊の意味自体が根本的に問われてきているのではないか。軍隊とか戦争の最終的な形態というか姿の根拠を奪うことが、すぐにはできなくても考えてもいいという時期にきていると思います。
(まとめ : 梶川 凉子)