(ニュース60号 2000/06/01)
埼玉県浦和市に住んでいる私が初めて参加した市民運動が「埼玉べ平連」です。ベトナム戦争終結を決定づけたジュネーブ協定締結を機に「東京べ平連」が解散したあとも、「埼玉べ平連」は一九七五年に「浦和市民連合」と名前を変えて組織としては今日まで存続しています。
その理由の一つは、それまで東京で行われていた自衛隊の中央観閲式が七三年から埼玉県の朝霞基地で行われるようになり、これに抗議するつぶせ!朝霞自衛隊観閲式デモ≠ノ毎年取り組んでおり、このデモを継続させる必要があったことです。また七一年に私たちの代表の小沢遼子さんが浦和市議会議員選挙に初めて立候補してトップ当選し、組織として議員を抱えることになったので簡単に解散するわけにいかなかったという事情も当時はありました。結局、朝霞の中央観閲式は九五年まで行われ、この間抗議デモも二三年間続きました。
そんなわけで、私自身は「埼玉べ平連」に参加した六九年から数えるともう三〇年余りも反戦市民運動のメンバーであったことになります。
九七年の秋ごろ、埼玉のYMCAの人から「NPO(非営利活動団体)の法律ができることを機に色々な分野を越えて埼玉の市民団体が集まろうじゃないか」という呼びかけが何人かの人を挟んで私のところにも来たんです。NPOというのに我々のような反戦運動が入っていくということはいかがなものかと、いやだいたい行ってもよいのかなと率直に思いました(笑い)。でも行ってみたんですね。
行って見たらやはりほとんど知らない人ばかりでした。YMCAの人がいて、それから環境問題をやってきた人、、子ども劇場おやこ劇場で教育問題をやってきた人、福祉や老人介護の問題をやってきた人──そういう各グループの代表の人が来ていましたが、もとベ平連で、いまも反戦運動をやっていますなんて人はやはり私以外にいませんね(笑い)。
とにかくそこで埼玉NPO連絡会というものを作ることになり、九八年の二月には埼玉県と共催でNPOフォーラムを開催しました。私は当初、NPOを勉強するくらいの気持ちで参加していたのですが、やがて、このNPO法制化の動きをきっかけにNPOは非常に大きな潮流になるだろうと感じるようになりました。そして大きな潮流にはなるだろうけど、反戦運動をやっている人は絶対NPOにはかんでいかないだろうとも考えました。
だって、NPOは「行政とのパートナーシップ」とか(笑い)、「市民と行政と企業が作る新しい成熟した社会」とか、我々にしてみたら何を言っているんだみたいなことを無邪気に言うわけですよ。だから反戦運動がNPOに背を向けるだろう、しかしその結果、おそらく反戦運動的な潮流、すなわち反権力とか日の丸君が代反対とか言っている人たちは、ますます今以上に世の中からはみ出していくだろう (笑い) とも思いました。
一方でNPO法人化を目指す市民運動側から見ると、反戦運動の人たちというのはいつまでたっても小難しい理屈にこだわって、いたずらに政府とか企業を敵視して、反対ばっかり叫んで、自分だけが正しいと思いやがってと、多分思うでしょう。それもまた私には非常に良くわかる気がするんです(笑い)。
だからこれは私がしっかりかんでおいた方が良いと、きわめて政治的な判断でこのNPOの活動に参加していったんです。
だから私はやがてNPOの集まりの中で浮いていくことを覚悟していたんですが、結果としてはそうはならなかった。地方はどこでもそうかも知れませんが、一つは反戦運動を含めて埼玉の市民運動の持っている地域運動的な側面があると思います。運動のメンバーが同窓生であったり、反戦デモをいっしょにやった人が、老人介護や教育の問題にも関わっていたり、暮らしの中で否応なく地域的な関わりを持って、県内で自然にいろんな人たちとのつながりができているということです。それと、教育問題であれ環境問題、福祉問題の市民運動であれ、社会の有り様に目の向いた運動の人≠スちではあったんです。そこには、当初思っていたより話の通じることもたくさんありました。
会合を重ねる中で、県内の各地から集まったいろんな分野のグループの寄り合いである埼玉NPO連絡会を母体に法人格を取ることになり、昨年の秋にさいたまNPOセンターという名称で法人格を取りました。
私自身はその過程でニュース作りをやりますと言ったんです。私は仕事が編集の仕事なので、こういうものを作るのはわりと得意なんですね。そのうち、会議の司会をやるとか、レジュメを作るとか、パソコンで会議のメールを出すとかということもひきうけることになって、埼玉べ平連以来の長い活動家経験 (笑い) でそういう実務は慣れているんですね。そうすると志と反していつの間にか活動の中心に身を置くようになり、周りからも頼られてどんどん深みにはまっていったんです。
NPOの法制化というのは、今まで任意団体にすぎなかった市民団体が法人格をとることができるというただそれだけのことなんです。なぜ法人格をとる必要があるかというと、たとえば市民団体の中には車とか事務所とか会費の積み立てなどで結構財産を持つところがあるんですが、団体の名前ではそれらの資産を所有できず代表者など個人名義の財産にせざるを得ないんですね。そうすると代表者が死んだとき相続問題が発生するなんてことが実際にあるらしいんです。ですから本来NPOというのは行政とのパートナーシップをめざすとかそういうことではまったくないんです。
ただNPOの法制化をきっかけに、反戦・反権力運動以外の市民運動がわっと自分たちの時代が来たという感じになったことも確かなんです。全国各地でそういうことが起こっているし、また全国各地で反戦運動は全然関わっていない。私らもさいたまNPOセンターと名乗りましたけれど、北海道NPOセンター、せんだい・みやぎNPOセンター、大阪、名古屋、福岡とか、かつてべ平連が各地にできたように、それぞれがNPOセンターを名乗っています。そういうことでNPOと反戦反権力の団体、あるいは法人団体と非法人団体という二つの潮流に市民団体が分裂しかねない。しかもどこでも、反戦運動はかげもなく、環境や教育や福祉などを出自とした市民団体の方が圧倒的に多数です。
去年の暮れに埼玉県の健康福祉部介護保険室というところから突然、介護保険サポーター千人を養成する研修講座事業を受託してくれないかという話が、さいたまNPOセンターに来ました。二〇〇〇年四月から介護保険がスタートするのに、九九年十月の介護保険制度見直しがあり、準備を進めていた市町村も対応に振り回され、県としても何らかの支援強化の必要性を感じていたんです。そこで介護保険制度の仕組みや活用方法について地域で相談に乗るサポーターを養成するという介護保険サポーターズクラブ事業≠ェ発案されたわけです。
実は私らも地方分権化の中で事業の一部をNPOに委託するよう働きかけていた経緯もあったので、とにかく引き受けようということにはなったのですが、昨年十二月十七日の県議会で事業計画が正式決定し、今年の三月末までに事業を終わらせるという話なんです。実際には今年の一月十日過ぎから準備にとりかかり、研修講座の企画作り、会場の手配、新事務所や事務員の確保、受講生募集用リーフレットの作成、講師の依頼、講座用テキストの作成、公募と抽選と、てんやわんやの大騒ぎが始まったんです。
会場の都合もあって、養成するサポーター千人を二百人ずつ川越、越谷、浦和二ヵ所および夜間休日の計五コースに分け、基本的に一コースについて各五回の講座をすることとして、三月十二日から二十六日の間に実施する計画にしました。テキストの作成は日本女子大学助教授の堀越栄子さんと私が三週間くらい缶詰状態になって作りました。
この委託された事業についた予算がいくらだと思います? 六千万円なんです。すごいでしょ?(笑い) それでこのサポーター研修講座事業の事務局長が私だったんです(笑い)。実はNPOに事業委託することを積極的に提案してくれた介護保険室長の加藤ひとみさんは私らと同世代の気鋭の女性職員で、以前私らが企画した「介護保険とNPO」というシンポジウムに彼女を招いたりして多少顔見知りだったことはあるのですが、それにしても他県のNPOへの委託事業に比べると金額も突出して多かったし、埼玉県としては大冒険だったと思いますね。
この事業に対する県民の反響も事前の予想をはるかに越えるものでした。最終的に県内九二市町村のうち九〇市町村から三千二百名の応募があり、各地域から参加できるように配慮しながら抽選で千名の受講者を選びました。講座の内容も工夫しました。スタートが大事だけど、偉い先生に難しい話をしてもらっても面白くない。それで各講座の初日には介護3きょうだい≠ニいう寸劇をやりました。「たいへんだ!おばあちゃんがボケちゃった!」と三兄弟が騒ぐところから劇が始まるんですが…(笑い)。劇の場面が展開するごとに堀越さんの司会で専門家が解説を加える。子ども劇場おやこ劇場の人たちの協力もあってとても面白い劇になって、評判も非常に良かったんですね。
この話自体はNPOが県の事業を受託したというだけのことです。ただ介護保険の知識を普及するということだけでは市民団体がうけた意味がないので、講義のカリキュラムの中では利用者である市民の立場に立った看護保険というコンセプトを徹底しました。この講座の全体を貫いていたのは、「まちの主役は私たち市民です」ということであり、具体的には自分の意見をきちっと言う市民をふやそうということでした。そしてこれは、実は介護保険制度の精神にも合致しているんですね。色々問題もありますが、地方分権の考え方がベースにあって、介護保険は市町村が保険者になるという制度です。「暮らしの場」「まち」からということです。また「措置から契約へ」といわれますが、行政だのみ、行政だよりではなく自己責任でという思想が背景にあります。市民が積極的に発言し行動していくということが介護保険制度を円滑に運営していくためにも必要なことなんですね。そういう意味では、私たちが地域で市民運動を続けてきた時の理念と、介護保険の精神には、よってきたる所以は別として、結果としては親和性をもっているという面があるともいえます。
昨年のことですが、NPOで知り合った「子ども劇場おやこ劇場」の代表と老人介護の問題をやっている「生活介護ネットワーク」の代表にも呼びかけ人をお願いして、盗聴法の問題について浦和で集会を開いたんです。内心は引きうけてくれるかしらと思っていたんですが、ぜひやりましょうという感じで引き受けていただいたんです。NPO連絡会で人間関係ができていたということもあるかも知れませんが、彼らにも盗聴法に反対する理由があるんですね。つまり老人介護の問題をやっている人はプライバシーと深く関わらざるをえないので、それが盗聴されてはたまらないと。また地域の教育力の回復を考えている「子ども劇場おやこ劇場」の人たちも、盗聴法などを通して今以上に管理が強まれば子どもにも影響が出てくると思っていたのです。でも、こちらが呼びかけなかったら多分彼女たちのほうからは盗聴法反対の集会をやるまでにはいたらなかったでしょう。全国のほとんどのNPOを名乗る団体は、自らがそのターゲットになる盗聴法に反対の声をあげてはいません。これは貴重な経験で、反戦反権力の運動の側が、自分たちの主張の仕方や運動の手法を考え直すことなく、自らワクをひろげる工夫や努力をしてこなかったという面があるようにも思いました。
現実問題としてはNPO潮流は今後一層行政と関係を深めつつ日本の市民団体の主流になっていくでしょう。そうした中で、権力に対する監視、チェック、批判という市民の大切な役割が薄れていく、なくなっていくとしたらそれはとてもまずいことです。そして反戦運動がNPOに背を向け続ける結果、そうした傾向が主流になり、日本の市民運動がますます分断されていくのではないかと危惧しています。
(ひがし かずくに・浦和市民連合/さいたまNPOセンター理事)
四月十五、十六日長野県諏訪郡で行われた市民の意見30の会・東京の合宿にお招きした東氏の報告を編集部の責任でまとめました。