(ニュース63号 2000/12/01)


「良心的兵役拒否国家」をめざそう

小田 実

 

 日本は「良心的軍事拒否国家」であるべきだと、私は考えている。それが日本国憲法――「平和憲法」の「平和主義」に基づいた国のあり方であり、世界に貢献するやり方である。「平和主義」はただの平和愛好でも「護憲」でもない。「戦争に正義はない」とし、問題、紛争の解決を武力を用いず、「非暴力」に徹して行おうとする理念と実践が「平和主義」だ。私はここで理想や夢を語ろうとしているのではない。現実の事態に即して主張している。

 ドイツなど西欧民主主義国には、戦後このかた「平和主義」の現実の政治の場での実践として「良心的兵役拒否」が法制度として確立されている。成年に達した若者は「兵役」につくか、「兵役」を「拒否」して「良心的兵役拒否者」になる。一九九九年度のドイツの「拒否」申請者は、前年度より二千人余増して、十七万四千人余。それに対して、九九年度の「兵役」者は十一万二千人にすぎない。

 「拒否」はただ銃をとらないことではない。「拒否者」は「兵役」の「軍事的奉仕活動(ミリタリーサービス)」に代わって、「兵役」期間以上、社会的弱者救済、救急活動、平和教育など種々の「市民的奉仕活動(シビルサービス)」を行って、社会に奉仕、貢献する。今、ドイツで老人介護で働く「拒否者」は、全体の作業者の一一%から一七%。この数字はいかに彼らがドイツの福祉に貢献しているかを示している。これは消極的活動ではない。「拒否者」のひとりが私に言った。「『軍事的奉仕活動』では世界は変わらない。『拒否者』の『市民的奉仕活動』の『平和主義』の実践が社会をよくし、世界を変える」

 戦争は戦争を産み、「正義の戦争」は多くがまやかしだった。そして、兵器の進歩は、「正義の戦争」であろうとなかろうと、途方もない殺戮(さつりく)と破壊を人間にもたらした。戦争をやめないかぎり、世界は破滅する。この歴史、世界認識が「平和主義」を強固にし、「良心的兵役拒否」を法制度にした。

 同じ認識で、私は日本の国のあり方を「良心的兵役拒否」の延長線上において、「平和主義」の実践を行う「良心的軍事拒否国家」であるべきだと主張する。日本は「平和主義」の「平和憲法」をもちながら、「軍事的奉仕活動」の「拒否」はしても、国全体の政策としての「平和主義」の実践はなかった。

 コソボに対する「NATO(北大西洋条約機構)」軍の「空爆」が始まったとき、その地域に重い歴史体験をもつギリシャは「NATO」の一員でありながら、民族の利害が複雑にからむバルカン半島での外国の武力介入は問題解決をさらに困難にすると「空爆」に反対し、懸命に平和解決に努力した。ギリシャの努力はまさに「平和主義」の実践だが、「平和憲法」をもつ日本は何もしなかった。いや、「空爆」にいち早く「理解」を示し、「日米安保」を拡大、強化して、いっそう武力介入の側に身を寄せた。

 今、世界のはやりは「人道的武力介入」の名の下の戦争の「正義の戦争」化と実行、軍備、軍事連携の強化だが、武力介入はコソボをふくめて、たいていが失敗してきている。東ティモールの場合がまれな成功例だが、それは介入の前後に「平和主義」の運動が国際的にも幅広く展開されてきていたからだ。

 詳しく論じる余裕はないが(詳細は近著『ひとりでもやる、ひとりでもやめる』<筑摩書房>で書いた)、今、私たち日本の市民がすべきことは、せっかち、やみくもに「改憲」を論じ、動くより、あるいはただ「護憲」を叫ぶより、「平和主義」の原点に立ち戻って、いかに日本が「良心的軍事拒否国家」として「市民的奉仕活動」の「平和主義」の実践を行い得るかを真摯(しんし)に考え、論じ、実践することだ。国をあげての難民救済、世界の「反核」の実現、「途上国」の債務の軽減、解消、平和交渉の仲介、実現、あるいは個人の「良心的兵役拒否」と組み合わせての若者たちの災害救援――なすべきことは山とある。それは世界を助ける。平和に貢献する。

(おだ まこと・作家、朝日新聞関西版論壇二〇〇〇年六月一八日付より転載)