反戦運動の中の反安保
とくに「80年代安保論争」から
反戦運動の中の安保、とくに「80年代安保論争」についてふりかえる――というのが、編集部からの注文だった。
本誌創刊の前まで「反派兵・反安保フォーラム」から出されていた月報 『Han-Han Geppou』の本年1月15日号には、白川真澄「60年安保批判の論 理を再考する」と国富建治「70年安保何が問題となっていたか」が載っているので、それに80年代の安保議論の問題を続けさせたい、という意図だと理解される。
■「80年代安保論争」
一九八二年、国連軍縮特別総会を前にして、世界でも日本でも、空前といえる規模の参加者をえて反核運動が展開されたことがあった。広島、東京、大阪と数十万規模の大集会も開かれた。しかしこれが運動としては不毛なものであることが、その過程の中で直ちに明らかとなり、それを実践的に乗り越えようとする新左翼党派、左派労働運動、市民団体などの勢力は「安保をつぶせ!中曾根を沈めよう」を共通のスローガンとして「6月行動実行委員会」を形成した。翌八三年夏には、米戦艦ニュージャージーがトマホークを搭載して横須賀に入港するという計画が明らかとなり、その年の秋には、首都圏の約一二○の市民団体、労働組合などによって「レーガンもトマホークも来るな!秋季行動」が展開され、日比谷野外音楽堂では一万人集会なども開催された。そして翌八四年一月には、横浜と横須賀とで「84反トマホーク運動に関する全国会議」が開かれ、そこで「トマホークの配備を許すな!全国運動」が結成される。
この運動の展開と並行して、それと非常に深くかかわりながら、いわゆる「80年代安保論争」なる議論が展開されたのだった。
八二年の反核運動の問題点については吉川ほか共著「反核の論理」(82年、柘植書房)にあり、「80年代安保論争」の経緯は、吉川「八○年代安保論争の焦点」(『新地平』85年2・3月合併号)および天野恵一「八〇年代安保論議−−論争は何故成立しなかったか」(同85年5月号)でたどれるので、ここでその内容の紹介ははぶく。
十数年を経た現在から振り返れば、この時の論争の当事者の予想や願望はほとんど外れ(危慎の方はかなり当たった)、その後のソ追崩壊、PKO、自衛隊海外派兵、社会党の崩壊など、だれも予想し得ていなかったのだが、しかしその「論争」(天野は論争自体が成立していなかったと批判したのだが)の中のいくつかの点は、今再検討しておく価値があると思われる。
■「武藤論文」の評価
この「論争」の開始となったのは、武藤一羊「戦後日本国家の終焉のあとに」(『新地平』82年10月号、のち武藤『日本国家の仮面をはがす』84年 社会評論社に収録)だが、これ以後の武藤の論争展開を、私が武藤が「新たな問題提起をした」と書いたことに、天野は「おおいに根拠があることだと思う。ただ、もっと吉川は正直に語るべきである」と批判し(前掲『新地平』論文)「武藤は方針を転換したとしか理解しようがない」とした。私自身もかかわった論争だからここでのべておかねばならないが、当時、私はたぶんにそう思いながら「転換」と断言するのをためらったことは確かだった。それは当時の私のいくつかの運動への提起と関連があったからだ。天野の評価が正しかったことを認める。この問題をもっと詳しく検討、議論する機会があればと希望する。
■運動論としての安保闘争議論を
ここで最低限言っておきたいことは、今から見ればさまざまな欠陥をもった「論争」ではあったが、それにしても、このやりとりは運動の展開と深く関わりをもった議論として展開されたという事実だ。現実には反トマホーク運動や「核チェック」の方針を中心とした運動が展開されており、それが反安保闘争として成立しうるものであるか否かという、極めて実践的なテーマをもって行なわれ、それだけに議論はかなりの熱気をはらんでいた。
昨年秋以降の安保・沖縄、そして地位協定などの間題をめぐって、多数の論文がさまざまな雑誌、機関誌・紙類の上に掲載されてきているのだが、どれを見ても、状況の分析、解説であり、極端な言い方をあえてすれば、運動についてはなにも語っていないという印象を受ける。これら論文の最後の四、五行だけをひろって読んでみたらいい。「今こそ沖縄人民と連帯して闘いを強化すべきときである」「安保破棄・基地撒去の闘いに全力を挙げて決起しよう」といった類いのしめの言葉があるだけで、どうしたらどうなるのか、どれだけの時期に、どのような力で、どうすればいいのか、といった見通しと提案の論は一つも見当たらない。
「80年代安保論争」のなかで、武藤一羊は批判者の現状分析論に対してこう反論していた。
……われわれは一般的に正しい規定を百回繰り返したあとで、百一回目から、それらの規定が、世界と日本の現実の中で貫徹される際の葛藤と衝突、分化と分裂、逆説と綱渡りに眼を向け、その中で現実のあげるきしみと悲鳴に耳をかたむけ始めなければならない。一般的に正しい規定の現実性はそこにこそ存在するからである。本来の政治闘争はこの百一回目から始まる。……(『新地平』83年7月号、前掲書に採録)
私はこの文章に、それが発散している熱に、今とくに共感する。そして武藤を含め、安保、沖縄を論ずる仲間たちに、この文章をあらためて提案したい。
「80年安保論争」では、ここ数年、運動のなかで問題となってきた「ハーフ・オプション」論、「平和基本法提案」、あるいは沖縄基地の「本土移転提案」(和田春樹「本土の遊休基地に移設を」『琉球新報』95年11月3日号)などにつながると思える傾向や問題点も指摘されていた。分岐はあの時始まっていたのか否か、これは現在につながる実践的問題だし、今、基地問題がふたたびクローズアップされてきているとき、もう一度繰り返されるかも知れぬ、おそらく繰り返されるであろう分岐を含んでいるように思えるからだ。
今、「80年代安保論争」にかかわった人びと、グループの間では、ほとんど論争らしい論争は行なわれていない。実践的に方向が一致しているのかどうかも確認されない。おのがじし、自分の守備範囲の中で分析と解説とそれ自身の行動を展開しているだけだ。共同行動、共闘についての苦い経験があるのは確かだろう。不信も払拭されていないのだろう。それなら、それも議論しよう。今、運動展開の見通しがなかなか立てにくいことはもちろん言うまでもない。しかし、それなら、それを認めた上で、どうしたらいいかを率直に議論しよう。
そうでないと、沖縄はまたも本土のさまざまな勢力が自分の運動の維持のために利用したにとどまるであろうから。
この意味で、非武装・不戦をもって反安保の運動の根本原理にしようという「市民の意見30の会・東京」の井上澄夫の主張の今後に期待したいし、また、「脱軍備ネットワーク」の『キャッチピース』38号(96年l月20日号)で、安保破棄はもはや民意であるとし、「どのようにしてこの民意を実際の政治に反映させる回路を作っていくかが、平和運動の大きな課題にならざるをえないだろう」としている「京都反戦ドタバタ会議」の青木雅彦の同誌次号に載るはずの続編に大きな関心をもっているし、ちょっと挑発的に言えば、「三沢、横田は遊休化しているので沖縄の基地をそこへ移せばいい」という和田提案への横田・福生など反基地活動家の意見もはっきりと展開してほしいものだと希望する。
昨年の市民の不戦宣言意見広告運動の総括として私が書いた「不戦の勢力を大きく広げるために」(「戦後50年・市民の不戦宜言」意見広告運動編『〈戦後50年〉あらためて不戦でいこう!』 95年社会評論社刊に収録)も、単なる経過報告ではなく、運動論としての意味を持たせたつもりだったのだが。
50年代安保闘争、砂川基地闘争などについて言いたいこともあったのだが、紙数も尽きた。別の機会に。
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